都会の犬たちを見ていると、そんなに焦らなくていいよ、そんなにびっくりしなくていいよ、そんなに興奮しなくても大丈夫と声をかけたくなります。
彼らには余裕がないというか、状態を表現するにはあまりにも漠然としてますがその言葉がぴったりきます。
人でいうといころの余裕がないという場合にもいろんな余裕のなさがある中で、一番ダメージが大きいのは「心に余裕のない状態」でしょう。
心に余裕のない状態になると、本当は自分の元にちゃんとあるべきものも「ない」と思い込んでしまうからです。
本来なら「動物を飼う」という選択は余裕があってするものというのが私たちの子供のころの考え方でした。
お金に余裕がある人が犬を飼う。
犬を飼えるスペース(庭)がある人が犬を飼うことができる。
余裕がない家で犬を飼う場合には、餌だけ与えてあとは自由という明治時代のような飼い方であったと思います。
昭和の初期にもこんな犬の飼い方はまだ通用していました。
でも今はそうはいきません。
だから今は余裕のある人が犬を飼うはずなのですが、本当にそうなっているでしょうか。
都会で飼い主さんと暮らす犬の元にはなんでもあるはずです。
食べるものもある。
たくさんの水もある。
安心して眠れる場所もある。
共に過ごす仲間もある。
余裕のある人に飼われた犬ならなんでもちゃんと持っているはずです。
ところがそうなっていない、だから都会の犬たちには余裕がない状態なのです。
ではそれはなぜなのだろうかと考えていました。
今お預かりの犬ちゃんといっしょに七山のオポ邸で過ごしています。
裏にや尾歩山(おぽさん)手前にはオポ広場とオポづくしの空間の中で感じるのは、ただ広いということ。
広いといってもコンクリートで固められた駐車場とは違います。
少しでもスペースがあれば芽を出そうとするたくましい雑草やら木々やらの生命の宿る地面がどこまでも続いています。
一日中庭や山を犬といっしょにうろうろと歩いていると、ここにはたくさんあるけれど都会にはないものがあるな。
「自然空間」そして「時間」。
どんなにたくさんの「もの」を持っていても、自然を感じる空間と時間を失うと心に余裕がなくなってしまうのかもしれない。
こうした土地は産業の盛んなお金を生み出す都会とは切り離されて存在していることがあります。
でもこの無駄に広い新鮮な空気が流れるこの空間が犬に心の余裕を与えていくのを感じるたびに、どうにかして犬の中にこの空間をと考えるのです。
犬だって普段は穴藏生活をするような動物です。
寝たり食べたり休んだりする場所は狭い場所の方が落ち着きます。
でも活動するならやっぱり犬がもともと生きていた場所、山という存在が自分の中にあることを体感している犬とそうでない犬では、生涯を喜びが違うと思います。
私が犬たちを見ていて感じたことで、科学的な根拠も裏付けする資料もありません。
何が犬の幸せなのか、何が犬の喜びなのか、と聞かれることがありますが、それをホルモン量の測定値で知ったところで何になるのでしょうか。
瞳の深さ、毛の輝きや柔らかさ、体の動かし方、そんな犬が一番美しく見える場所が山だというだけなのです。
そしてその山は犬の心にきっと余裕を与えてくれます。
その犬にとって一度しかない生涯をどのように飼い主と過ごすのか、犬の生涯は人次第です。