先日ブログに三島由紀夫と東大生の討論から紐付けて「コミュニケーションと熱量」について書いた記事が意外に好評をいただきました。
記事はこちら→犬への号令がなかなか伝わらないという飼い主への三つのヒント
どんなことでも犬に結び付けて考えしまう癖はすでに自分の中では日常化しております。
前述の三島由紀夫氏の映画を見ながら、もう一つ考えていたことがあります。
それは「犬の攻撃性」についてです。
東大全共闘で大学の一部を占領して陣取り火炎ビンを投げたりバリケートを作って抵抗する学生たちと、それに立ち向かう国家警察間の紛争について、それが「知的な行為」であるかどうかというやり取りがありました。
東大全共闘の深い意味を語るほど理解はしていないのですが、古い権威主義とそれがはびこる社会や団体もしくは国と、新しい主張をもつ学生が対立した結果生まれた紛争という形だということで大きくは間違っていないと思います。
この学生と社会の対立ですが、映画の中でもコメントがあるように紛争の起きた大学が「東大」であったことが社会的に大きな問題なったということです。
日本国内で最も頭脳の優れている人たちが「対話」ではなく「力」を行使しているということが知的な行為なのかは誰もが疑問に思うところでしょう。
暴力をふるう人間は知的ではなくすでにチンピラであるなら、全部捕まえてしまえばいいけれどそうではないから問題なのである、という社会問題です。
では、犬の場合になるとどうでしょうか?
犬が咬みついたら動物であるから本能的に攻撃をしても仕方がないとみられがちです。
人が咬みついて他人にケガをしたら大問題になるところが、犬が人に咬みついても大した問題にはなりません。
そこには「犬だから仕方ない」という考えがあるからです。
犬だからという考えの中には、犬は人間ではない頭の悪い動物だから仕方ないとか、犬は言葉がわからないから咬みついても仕方ない、もっと率直に犬だから咬みつくという考えに至る方もいるでしょう。
ですが、私はそうは思えないのです。
犬は大変知的な動物であるけれど、その知性は人と競い合うような知性ではないというだけなのです。
以前ブログでも紹介した「動物を賢さがわかるのか人は賢いのか?」の書籍のタイトルのとおり、本当に人は自分の物差しだけで動物を測りすぎています。
知性の中には感性というものもあります。
例えば、人は犬ほど鼻が役に立たないなど、人には犬に劣るものはいくつもあるのです。
だから犬が人よりも知性が劣っていると断言づけることはできない。
つまり、犬は知性がないから咬みついたり吠えたりするような攻撃行動をするのだという考え方を私は持ちません。
犬が咬みついたり吠えたりする攻撃性を身に着けているのは、自分や群れを守るための防衛のためであったり、食べ物を捕食するための生きるべき手段のためです。
特にその攻撃性が家族内の誰かに向けられるとしたら、それは犬にとって危機的な状態であり、本来ありえない攻撃性が出ているということになります。
犬が攻撃性を備えているのは当たり前のことで、それをいつどのように使うかは、犬の性質と環境が支配しています。
知性と攻撃性については、尊敬するコンラート・ローレンツ先生がいろんな書籍に記して下さっています。
時折目を通すのですが、なかなかすっぱりとは理解が進まず、もっともっと時間をかけて本の中のローレンツ先生にこのことについて質問したい気持ちでいっぱいです。
三島由紀夫氏は闘争について「一対一の命をかけた決闘であれば暴力はあり」だと言っていました。
犬の暴力も本来はこうしたものであったのではないかと思うのです。
逃げながら咬みつく犬たち。
本来の犬としての尊厳を取り戻してほしい、そのためには犬への理解を深めるしかありません。