犬にはいろんな形、色、柄、サイズがあることが犬を飼うことの楽しみにもなっているようです。
犬は他の動物と比較しても多種多様に変化した特別な動物であるようです。
犬の繁殖に対して人為的な介入がなされているということを含めても、ここまでいろんな形を生み出す種類の動物が他にあるでしょうか。
そのいろんな形をした犬も、そもそもは世界各地区に存在したイヌという人の介入なしに生活していた動物から発しています。
そのイヌが人為的な繁殖によって特別の形やサイズに系統づけられて「純血種」として作り上げられたのは今から200年ほど前です。
純血種の繁殖は、はじめは「目的別」に、つまり犬をどのような目的で人のために活用するかということを目的に作られていました。
しかしその犬の役割は機械にとって代わるようになり、犬にはその用途として働く必要がなくなってきます。
純血種の繁殖はそのまま「人の求める形への犬の進化」に変えられていきます。
それは主にヨーロッパ地域で始まり、洋犬種の「純血種」としてそれぞれに定義づけられました。
定義付けたのはケンエルクラブという貴族のクラブでした。
今皆さんのそばにいる、様々な種類の洋犬の純血種はまずここで純血種という血統として位置づけられその後は同じ種類の純血種同志の繁殖が繰り返されているのです。
同じく日本でも柴犬保存協会や四国犬保存協会といったグループによって、日本の純血種を作り上げ、現在でもその種を保存できるように努められています。
その一部がペットとして飼い主の元にわたり生活を共にしているわけです。
純血種の繁殖にはいくつかの目的があったと思いますが、これらは以下の二つのどちらかを選択された結果です。
ひとつは原始的であること。
原始的とは、イヌという家畜化される前の日本でいうところの山犬としての性質をできるだけ残していこうという選択です。
原始的な繁殖を目指したものが日本の純血種、柴犬、北海道犬、紀州犬などそれぞれの地域の特徴を残した地域に根付いた山犬の末裔です。
以前ブログでもご紹介したとおり、日本オオカミの遺伝子構造に一番近い動物が柴犬であるという論文からも、その繁殖の目的がうかがえます。
逆に、イヌらしからぬ形を求められた繁殖もありました。
毛の抜けないプードル、ほとんど毛がないイタリアングレーハウンド、鼻のつぶれたシーズー、背中の曲がったボルゾイ、ふわふわの毛のビジョンフリーゼなども、すべて人が求めたからこそできた純血種なのです。
つまりは、人が犬に何を求めるのかによって、犬の形や機能は大きく変わっていくのだということです。
日本でとても流行っている豆柴犬などは、柴犬としての原始的で犬らしい形が好みだけれど、性質としてはおとなしくお人形さんのようであってほしいというわがままな人の欲求によって生まれた種類の犬です。
確かに豆柴は形は和の犬で、中身は機能性が低く管理しやすいペットとなったことでマンションでの飼育もできるようになりました。
しかし私はこの状態に少し複雑な気持ちを抱くのです。
人はなぜ犬と暮らしたいと思うのでしょうか。
犬を抱っこしていると自分が安心し安らげるから、犬が自分にとって癒しの道具になるからでしょうか。
それとも、犬という動物の能力や機能性の高さを知り、その機能が発揮されることに喜びを覚えるからでしょうか。
もしくは、犬の機能性を自分の生活の一部として役立てたいという目的を持っているからでしょうか。
犬に斬新さを求めすぎると犬は犬という動物としての機能性を失うことになり、もはやいつか犬ではなくなってしまうかもしれないということを、私は不安に思っているのだと思います。
この国内においては、犬は人の介入なしに繁殖することはなくなってきました。
野良犬や野犬といった存在もなくなり、餌付けされている野犬たちも近親交配状態に陥っています。
犬を愛するみなさんが「犬がかわいい」と思うからただ飼うのだというとてもシンプルで幸せな気持ちはぜひそのまま大切にしていただきたいと思います。
犬としての機能が落ちていったとしても、可愛ければよいではないかという意見もひとつの価値観です。
ただ、ひとつだけ知っていただきたいことがあります。
失っていく機能の中に、犬が最も大切にしている「群れ」のシステム、そしてそれを維持するための「コミュニケーション」もあるのだということです。
どんな動物にとっても最も大切なもの、それは「コミュニケーション」であると私は思うからです。
彼ら犬から、コミュニケーションの機能と群れを維持する機能を奪いたくないのです。
ひとりひとりが犬を知って犬を見張ることで、犬がこれからどのように変化していくのかを歴史を見届けられるでしょう。
私は見届けていきます。
犬の末路までずっといっしょに。