古い書籍を見直すと当たり前すぎることなのに新しい感銘を受けることがあります。
今回は平岩米吉先生の「犬の生態(築地書館発行)」の中に思うことがありました。
犬の訓練士になりたいと思った中学生か高校生の手にした本で、当時の私にとってのバイブルでした。
人はなぜ犬を飼うようになったのか?
犬の歴史について考えると「犬はなぜ人と暮らすようになったのか」という疑問がわきます。犬側からは答えが難しいなら人側から考えます。
すると「なぜ人は犬を飼うようになったのか」という疑問に変わります。
犬があたかも自分の意志で人のそばにいるように考えがちですが、犬は馬と同じように人に飼われることになったイヌ科の動物なのです。
犬に飼われていない遺伝子学的に一番近い動物は野生のオオカミということになりますね。
人が犬を飼うようになった理由は、犬の習性を人の生活に利用する価値があったこと、そして、犬が人に馴れやすく人の言うことに従う動物であったことです。
では、人は犬の中にどのような価値を見出したのでしょうか。
犬にはどのような仕事があったのか?
犬の利用の価値は犬の従順さと高い適応性によって幅が広がり、犬は実に様々な仕事をして人を助けるようになりました。人は犬を様々な用途で利用したのです。
「犬の用途」とは犬がどのような仕事に割り当てられるのかを言います。
冒頭の書籍「犬の生態」の中には「犬の用途と種類」という章があります。
犬の用途の表には犬種ごとに用途別の名称割り当てで記載されいています。
猟犬
番犬
闘犬
そり犬
愛玩
牧羊犬
軍用犬
競争犬
救助犬
警察犬
水中作業
とこんな風にあります。
例えば柴犬の欄には「猟・番」
ゴールデンリトリバーの欄には「猟」とあるのです。
現代の犬たちはどんな役割を持っているのだろうか?
しかし、ゴールデンリトリバーを猟犬として飼っている方はほとんどいません。さらに、柴犬を番犬として飼っている人もかなり少なくなりました。
では、現在では犬たちは何かの役割を果たしているでしょうか?
今や身近な犬は猟犬ではない、番犬ではない、この犬たちは家庭犬だと言いたいところです。
しかし平岩先生の「犬の用途の種類」には家庭犬という欄がありません。
一番近いもので「愛玩犬」という種別はあります。
でも家庭犬と愛玩犬は違いますね。
家庭犬とは実に曖昧な言葉ですが、人が飼う犬はすべて家庭犬です。
飼い犬という言葉が否定的にとらえられるようになったため、愛護の観点から飼い犬を家庭犬と言い換えるようになっただけなのです。
では、みなさんの家庭犬は愛玩犬ですか?
私と暮らしていた犬は番犬だった。
私も犬と暮らした経験があります。小学生からお勝手の横に犬小屋があったシロ。
シロは立派な番犬でした。
中学生のころからいっしょに暮らした柴犬の名前はコニー(洋犬の名前ですみません)
コニーもまた番犬として、そして室内ではネズミを追う猟犬として活躍しました。
訓練士になってから迎えたラブラドルリトリバーのオポ。
オポは番犬として非常に力のある犬でした。
テリトリーの番犬、そして私自身のガードドッグでもあり、七山ではガイドドッグとして活躍していました。
どの犬たちもとても優れた番犬で、役割を果たしてくれたことに感謝しています。
そして同時に、彼らは私の家族の一員でもありました。
当然のことながら愛情を注いでも注ぎきれないほど大切な犬たちでした。
終わりに…犬の用途は犬の能力だと思う
犬をただかわいがるものだと思っている飼い主さんにはなじみのない「犬の用途」という言葉に抵抗を感じられる方もいるとは思います。しかし、犬が人にとって役立ったという歴史があることが前提で今の犬たちはこうして私たちのそばにいるのです。
そしてその人にとっての用途は、犬にとっての役割であり、そこには働く犬たちの姿がありました。
ところが現在、人と暮らすほとんどの犬の用途は「愛玩」になっています。
ただかわいがるための存在、それが「愛玩」なのです。
能力の高い犬たちに役割がないことは彼らの生きがいにもつながりません。
犬の用途という言葉、私にとっては犬の能力と置き換えることができます。
犬は優れた、素晴らしい動物なのです。
彼らの人生の中で、その役割を発揮させてあげてください。