競馬の競争馬を見るのが好きになったという方からテレビ中継された競争馬の話を聞きました。
ところが馬の話は最近あったらしい事件のことになりました。
競馬のテレビ中継でパドックに入るのを嫌がる競争馬を引いている人が馬を叩いたり蹴ったりするシーンが放送されたらしいのです。
競馬は賭け事だけでなく馬が好きな人が見るスポーツでもあるので、その光景を見て嫌悪感を覚えるのは当然のことでしょう。
しかしこの話を聞いて私はもう少し別の考えもあってはいいのではないかと思いました。
私ならこうも考えます。
競馬馬、中央競馬ではサラブレッド、地方競馬では昔は農耕用として使っていたが今は使われなくなって行き場がなくなったような地方のばん馬なども使われています。
どちらも馬ですが、馬は存在する動物の中でも野生では存在せず家畜としてしか生きていないと言われる動物です。
野生馬を食い尽くしたのは私たち人間であって、それほど人にとって馬の活用価値は高かったのでしょう。
移動から農耕から軍事にいたるまで、万能だった馬も活躍の場を失って、私たちが一番目にするのが競走馬となりました。
人が利用する動物のことを家畜というのですが、馬は家畜なのです。
家畜という言葉の響きはあまりよくないと感じられるでしょうが、これが事実です。
家畜は人が様々な形で利用するものであって、競走馬は人に馴れ人のいうことを聞いて競馬をする馬のことを言います。
競走馬として優れていれば、繁殖馬として生涯を豊に過ごすことが約束されます。
でももし競走馬として価値がなかったとなれば、その馬は馬肉になる可能性も十分にあるのです。
競走馬として走ることを拒否してしまえばこの先はないと、もし私がその馬を育てた職員だったら蹴ってでも馬を走らせたいと思うかもしれません。
そうでなければ生きる場がのない馬を「なんとしても走れ」と思う気持ちが虐待なのでしょうか。
実際のこの事件の当事者の方がどのような思いでいたのかはわかりません。
しかし、家畜という動物の世界は華やかな世界だけではないという、裏側があるということを知ることにも価値があると思います。
先日おすすめの本として「快楽としての動物保護」という本を紹介しました。
動物を保護したり愛護する歴史や背景は実に複雑なもので、人が利用する動物の販売から利用にいたる背景もまた単純ではありません。
馬と同じように犬もまた、純血種の繁殖から販売、また雑種犬の保護から飼育にかけても、うまくいっていない問題はあまり表面に出ることはありません。
しかも犬は馬よりもずっと小さな動物にされてしまい、どんなにうまくいっていなくても室内になんとかかくし通して飼うこともできるサイズになってしまいました。
私の犬のことを理解したいという気持ちが、他の動物、なかでも人が強くかかわる動物への関心に向いていきます。
もちろん今目の前にわが犬がいる方は、まずは足元の犬の立場にたって考えることを優先させてください。
かわいそうという気持ちを捨てて、犬を尊重するという姿勢を飼い主が持つことです。