このブログを読まれている方はほとんどご存知かと思うのですが、私は比較的フラットな感じであまり騒いだりはしゃいだりすることがありません。
中学、高校と女子校にいましたが、中性的な立場でキャーキャーと騒ぐ女子達の中にいても、どちらかというと落ち着かせる機能を働かせる方でした。
その私でも、面白いと思ったりすることはもちろんあります。
その面白さはばかばかしいということよりも、へーなるほど面白いなと納得するようなことがほとんどです。
今年一番最初に面白かったことは、年末から続けてみてしまった桂枝雀師匠の落語の中にありました。
動画を検索して見たのでお題のなかに「いぬ」というのを見つけてしまいました。
どうやら干支にちなんだお題として毎年紹介されたいたもののようで、この年は戌年だったのでしょう。
その「いぬ」というお題の落語の中に登場する犬たちのはなしがほとんど最もな話なのです。
要約すると、ある人が突然犬の話がわかるようになり、夜酒を飲んで帰る途中に犬の集会に出くわして話を聴くというところからはじまります。
犬たちは人に飼われている犬で、鎖や首輪を自分達で外して夜こうして集会をしているとのことでした。
犬はいうにはこんなことでした。
もともとは自由に過ごしていたのだけど、人が鎖や首輪という道具をつくって犬を飼うということになった。
それなら人も利用のし甲斐もあるので、犬の方で飼われて利用してやろうということでこうやってみたということらしいです。
ところが人は案外犬が期待していたのとは違ったらしく落胆することも多いとのこと。
以前は残飯でいいごはんだったのに、ドッグフードなどというものをつくってしまいどうにかしてほしいという嘆願。
さらには、人があまりに横着なために人とは縁を切ろうと考える過激な意見も若い犬の中には出ているということ。
それで、どうか大自然の法則にのっとった形ですすめてもらえないだろうかという風に人に訴える長老の犬。
台本を書かれたのがどなたかわかりませんが、犬という動物のことをよくわかっているなと感嘆したのです。
犬のことをたくさん勉強して犬の専門家などになってしまう人たちの方が、こうした発想には至らなくなります。
それは、犬の専門家の多くが人の都合にたって考えることも共に学んでしまうからでしょう。
私達が幸せになるためには犬をどうしたらいいのか。
どのように手をかけず犬にいうことを聞かせ大人しくして、人のペットにすることができるのか、そんなことばかりを学んでしまうようではこの落語は笑えないどころかツボにもはいってきません。
興味のある方、ぜひ一度「いぬ」という落語を聴いてください。
もう時代が流れすぎてしまい、小さいころに野良犬がそばにいた記憶を持つ人々も化石に近付きつつあります。
きっと私もその生き証人のひとりなので、私達が生きている間に考え方の立ち居地だけでも改めていけないかと思います。