先日知人が尋ねてきたときに「この本いただいたんです。見てみてください。」と置いていかれた本が「馬語の本」でした。
著者はライターの方で馬の専門家ではありません。普通の人が馬と接して感じたことや、自分なりに動物を観察してその行動から馬の気持ちをしようというもので、犬の気持ちを犬語といっているのと全く同じとらえ方だったので、楽しく拝読しました。
犬は動物を捕らえて食べる捕食動物といわれる部類であるのに対し、馬の方は食べられる方の草食動物です。あきらかにそれぞれの立場は違うものの、馬も犬と同じように群れをなして移動したり生活をする習性があるため、その社会的な行動には多くの共通点があるようです。
たとえば、馬が後ろ脚で蹴るという行動をしますね。犬などの動物に襲われそうになったときも馬の後ろ脚で蹴られるとひとたまりもありません。馬の防御的攻撃行動ともいえるものですが、直接的に攻撃しなくても馬は苛立ちを感じたり強さを示すときに後ろ脚で地面を蹴る行動をするらしいです。
実は犬も後ろ脚で地面を蹴る行動をします。よく見られるのは排泄の直後ですが、排泄行動との関連性がなくても、地面を脚で蹴る行動をすることがあります。直接的には自分の臭いを地面につけるマーキング行動のひとつになっていますが、馬と同じようにちょっと虚勢を張る行動でもあることから、似てるなと感じたのです。
他にも耳の動かし方などは似ています。特に緊張をする耳を後ろに倒したりする社会的な行動は犬にも見られます。
一番納得がしたのは、人が馬に近づく方法です。
馬が人を認識したら馬が近づいて人のことを危険でないと感じるまでは、視線や姿勢を馬のほうに向かずほとんどうごかずに直視せずにたっておくというものでした。文章のままではありませんが、行動としてはこのような接し方です。そしてゆっくりと相手が自分を認知し、危険でないと受け入れてから次のコミュニケーションが始まるというものです。
この接し方は馬が大変怖がりで、距離を縮めたり接近したりしないようにという注意を払うものですが、あれほど大きな馬に対してでもこうやってゆっくりと接していく必要があるのに、小さな子犬や犬に対してであれば、なおさらのこと距離と時間をかけて相手が自分を確かめるまで待ち、認知が進まないのであればくり返しそのチャンスを与えるという時間をかけなければなりません。特に子犬や小型犬に急に近づいて手を出して触ったり見つめたり声をかけたりすることをくり返していると、犬はすぐに人に対して吠えたり、来客が来ると興奮してとびついたり走り回ったりするようになってしまいます。
そして、最後に犬のことにふれてありましたがこの部分だけは私は違う見方です。
本の中にはこうありました。
引用ココから
ウマにとっての人間は「積極的に自分から仲良くなりたい存在」ではないからです。ウマは仲間と草を食べて暮らしてゆければ幸せです。そういう環境にいられるのなら、人間は特に必要ありません。
もちろん、おいしいものをくれるとか、かゆいところを掻いてくれるからという理由で人間に近づいてくることはあります。でも、それは、犬が人間のことを大好きで、ずっとそばにいたいと思っているのとはちょっと違います。ウマはもっと淡々としていう、という感じでしょうか。
ココまで
・馬語手帖 河田桟 発行所カディブックスより
本当に犬は人間のことが大好きでずっとそばにいたいと思っているでしょうか。
みなさんはどう思うでしょうか。
私は少し違う考えを持っています。
犬と人は特別な歴史を持って近づいていきました。犬は人を求め、結果人も犬を求めそして共に同じテリトリーを守りながら協力関係を結んできたのでしょう。ですが、人が犬を飼うという新しい関係が生まれました。そして現在に至るのです。
犬は繁殖によりとても無力で学習能力も低くなってきました。執着も高く欲求の偏りも大きくなっています。同時に病気も大変増えていますね。犬は馬と同じようにもっと淡々としていたのでしょうが、時代と共にその姿は消えていきそうになっています。
ある動物を研究する方の著作には、馬についてこんな風に触れていました。馬は世界でもっとも過酷な運命をたどった動物である。なぜなら野生の馬というのはもう1頭も存在しないからだということでした。牛であれ豚であれ、その元の動物は存在しているし、世界の中には人に飼われていない野犬はまだまだたくさんいます。動物の人の関与も動物の淘汰の歴史のひとつでしょうから仕方のないことかもしれません。しかし、人というのは短い時間で環境に影響を与える特別な動物だと感じます。自分の近くにいる動物が変わってきたら何かのお知らせです。今一番変化しているのは実は野生動物ではなく、犬と猫ではないかと思っています。みなさんはどう感じているでしょうか。