犬育ての基本姿勢は昔からあまり変わっていないように思います。
時代に応じて、いろいろと変わっていくのは「犬のしつけ方・トレーニング法」です。
犬のトレーニング法は犬育ての基本姿勢とは違う面を持ちます。
「しつけ方・トレーニング法」の中に手法などのテクニックを含んでいるということです。
その手法のひとつ、忘れかけていた言葉を生徒さんから聞きました。
「犬に天罰を与えるように教わったことがあるのだけど、上手くいかずに結局しませんでした。」
というものでした。
「天罰」というトレーニング法をわたしも覚えています。
最初に犬のトレーニングを学んだのが訓練所に勤め始めたときで、もう30年以上前のことです。
訓練所では、先輩方からそのやり方を学んだり、やっていることの意味を教えてもらいました。
その中に「天罰」という手法がありました。
今ではほとんど使われることはない古い手法のため、ご存知ない方のために説明します。
犬のトレーニングやしつけ方で用いる「天罰」とはこのようなものです。
犬に「罰」を与えたい状況になったとき、たとえば、犬が食べ物を盗み食いしたとか
家具をかじっているとか、サークルの中で吠えているとか…そういった状況です。
そのような状況に、犬に対して罰を与えるというものです。
ただし、その罰は自分(=人)が与えていると犬に思われていはいけない、
それを「天罰」として与えるのだという手法です。
その「天罰」の与え方も様々であるようですが、たとえば空き缶に石などをいれておき
投げて音を出す、その際にも空から降ってきたように投げることで、犬には「天罰」だと
思わせるというものです。
ではなぜ、犬に罰を与えているのが自分(=人)だと思われてはいけない理由はいくつかあります。
人を嫌いにならないように、人を怖がるようにならないように、という理由だったり
人が見ていないと罰を与える人がいないため、それらの困ったことを人がいないときに犬がするというのが主な理由です。
なんとなく「なるほど」的な感じがして、天罰を試したことがある人もいるかもしれません。
でも、よく考えてみてください。
これらの中にはいくつもの矛盾があります。
そもそも、やってはいけないことを「いけない」と飼い主が叱責することで
嫌われたり、怖がられたりするようなら、そもそもその飼い主と犬の関係性に問題があります。
叱責ができるのは、群れの順位が上のもの、わかりやすくいえば親的存在です。
してはいけないことを叱責されたことで、親のことを一瞬は不快に思ったとしても、
お互いに尊重しあえる必要な存在であれば、関係性に問題はなくむしろ関係性はより深まります。
このとき、犬に善悪の判断を理解させる必要もありません。子供とて同じことですね。
まずはルールを一貫して決めている役割のものがいるので、そのものがルールをわかりやすく
伝えるというだけのことです。
もちろん、そのためには犬と人が関係性をつくる必要があります。
関係性は罰を与えることでは作れませんが、犬にはグループに所属し服従するという能力があります。
天罰という考え方は人の中にあるものです。
たとえば、人のものをこっそり盗んだあとに、転んで怪我をするようなことがあったときに
自分に嫌なことが起きたのは、自分が人に嫌なことをしたからだ、これは天罰だ。
そのような内容ではないでしょうか。
こんな因果関係で物事を考えるのは、人、それも大人であって犬には起こりません。
そして、敏感な犬はその「天罰」が飼い主が与えた罰であることをすぐに理解します。
なげたものから臭う飼い主の手の臭い、それが動かぬ証拠です。
万が一「天罰」が成功したとしても、その結末はこんなものでしょう。
犬は何か行動を起こしたときに恐ろしいことが起きたため、他の行動も制限がかかる
突然恐ろしいことがときどき起きる、犬はその環境に対して不信感をもつようになる
場合によっては、犬がとても神経質な性格になる可能性もあります。
神経質になった結果、犬はいつも人について回るようになり、「犬がお利口さんになった」と勘違いする飼い主もいるかもしれません。
犬は社会性の高い動物で、ルールに敏感です。
それが犬が群れ=家族というグループに所属している証です。
ルールを決めている人が誰かを知りたいと思っています。
止めさせたいことを犬にわかりやすく伝えるために「天罰」は不要です。
もし天罰法を使ったことがあるとしても、悔いる必要はありません。
犬は忘れ去ることの上手な動物です。
前向きな関係作りを望んでいます。
今日から、今から、犬のよき理解者としてひとつずつ学べばいいのです。
犬育ての基本姿勢は、犬と向き合う心の持ち方です。