あのオポの異変の日から今日で6日目を迎える。
必要な空間と時間をたくさん経ながらオポは元の気を取り戻しつつある。
今日は時系列でなく、いくつかの項目で治癒の道を紹介したい。
最初の3日間は絶食。
先日授業で「犬に絶食させた方がいいんでしょうか?」と質問されたばかりだったので、すぐに実践したオポがいい例となった。
授業での答えは「犬は必要なときには自分で絶食しますよ。」。
大食漢のオポですら、ここぞというときには「食べない」ことを選択できる。
食べたいけど「痛いから食べられない」ではなく食べるということが欲求の中から消えるように関心を示さなくなる。
犬が食べないとい聞くと「ぐったりして食べない」ことを想像されるだろうか。
治癒の道で食べないときには「凛として食べない」といった感じなのだ。
しっかりしていけど「食べない」ことを選択していることがわかる。
この二つは大きく違うので、ぜひ間違えないようにお願いしたい。
食べない→治癒が進む、と方程式的に受け取ってしまうと
犬の行動を見誤ったり、無理は断食で犬に負担をかけてしまうだろう。
絶食中は飲む水を選んでいる。
昨日ブログで紹介したように、ここ一番で選ぶ水は「湧水」
「清らかな汚れなき山の水」なのだ。これこそが体を浄化させたい本当の時に犬が選ぶ水。
都心部にオポと住んでいた後半期、オポがあまり水を飲まなくなっていた。
浄化を必要としている時に、不純物の多い都市の水を取ることができなかったのだ。
七山に引っ越してきて、最初の1カ月間はここの地下水を飲み続けた。
毎日、毎日大量に飲み続け、自分の体をあらっているように思えた。
体が癒しを必要としているとき、特に清らかな血液を作りだす必要のあるとき
オポにとってこのときは「湧水」がその血の代わりとなる。
絶食によって不要物が体内から出てくる。
だからこそ、とるものは真に純粋なものなのだろう。
土の上に伏せる。
奥山で過ごした1日以外で、治癒の進みやすい夕方から早朝にかけて「いる場」として選択するのが、土の上。
庭はテリトリーなので、テリトリーのどの部分に伏せるのかで選ぶが、不思議なことに、庭では山の方を向いて伏せている。
そして、門の外では川の方を向いて伏せている。
なぜ不思議かというと、テリトリーを守るときは庭では外を向いて伏せるからだ。
この伏せの向き方ひとつ。オポには理由があるのだ。
聞いても答えられない理由。「何故?って、でもこうでしょう。」くらいの理由なのだ。
さらに排泄物を出す場所。
これも通常の排泄場所とは異なる場を選択するなど、治癒のときに起きる行動には「ミラグロ」がいっぱいなのだ。
これらは「本能」と呼ぶべきものかもしれない。
ただその「本能」は都心部のアパートでは実現されなかった。
わが犬のことは「ある程度」知っているつもりだった飼い主の私も
いかに自分の知らぬ犬の世界があるのを知って愕然とすると同時に
その飼い主の落ち込みを消し去ってくれるほどの喜びがある。
「犬であるオポ」は健在で、そのすばらしさに触れているのだ。
もしかしたら、いやおそらく大半の人が犬の大変な状態に耐えられないかもしれない。
でも、治癒の道を歩いているオポは、私の大好きなオポくんでもなく、私の愛しいオポでもない。
行動だけでなく、表情やオポそのものが特別な何かになっている。
それは犬という動物の範囲内で起こるミラグロの世界。
この不思議な世界をみなさんは知っているのだろうか。
さて、オポは現実の世界に戻ってきた。
お腹の傷はまだ癒えていないようだが、食欲は200%のいつものオポ。
「まだ、少しずつじゃないと食べられないんだよ。」と普通の飼い主に戻る私も。
片方の眉をあげて片方の眉を下げているのは大切なメッセージ。
「で?。ボクのゴハンは?」