グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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映画「愛と哀しみの果て(out of africa)の犬を見て思うこと。

好きな映画で何度見ても見飽きることない映画「愛と哀しみの果て」。

何が好きなのかというとアフリカの大自然の風景を見ることができるからだろうと思うのです。

そして、この映画に出てくるおそらくアイリッシュウルフハウンドがすごく素敵。

この映画は、小説家カレン・フォン・ブリクセンの書いた小説をもとに映画化されたものです。

映画のはじめでは1913年にデンマークからアフリカのケニアにカレンが列車に乗って旅するシーンがありますが、ここにそのアイリッシュウルフハウンド犬がいっしょに乗っています。

カレンと犬は列車をから馬車に乗り込み結婚式を挙げる施設へ到着。

到着するとカレンはその犬を座らせ「ちょっと待っててね」と言って立ち去りしばらくして戻ってくるともちろん犬は座ったまま待っています。

座らせるときに「オスワリ」などと合図する必要もないし、リードを置けばそこにステイするというのが当たり前になっていることがこの様子からわかります。

また犬のところにカレンが戻ってきてリードを持っていくのですが「お利口さん」などと褒めていることもありません。

出来るのが当たりまえ、それがこの時代の貴族が飼っていた犬だということがよくわかります。

到着したときにケニアの支配人はこのアイリッシュウルフハンドにびっくりします。

純血種にも驚いたのでしょうが、犬であれ動物をこうして従わせていることにもまた驚いたのでしょう。

洋犬の純血種は貴族社会の中で生まれたヨーロッパの文化のひとつです。

もはや100年以上前に築き上げられたひとつの文化で、クラッシックミュージックと同じように時代を経ても輝きはなくならないはずなのですが、音楽と違うのは犬には遺伝という難しいシステムが伴うということです。

繰り返される純血種の交配によってその遺伝子がどのように変化していくのか、ヨーロッパでは100年前と同じレベルで純血種の「形質」と「性質」を維持し続けることができているのか、実際にヨーロッパに行って犬を見たいと思うこともしばしばです。

この時代の純血種は本当に精密であり、現代新たに生れている新しい純血種とは一線を画すと思います。

さらにハイブリッドという純血種と純血種の混合となると、純血種以上の安定した性質となることは難しいのではないかと考えています。

100年前の貴族が暮らしていた犬はどのような犬だったのか、厳密に時代考証している信頼できる映画を見るしか方法がありません。

「愛と哀しみの果て」のアイリッシュウルフハウンドと飼い主のカレンですが、映画の最終近くにもまた登場します。

ヨーロッパから離れてアフリカで暮らしたカレンの孤独を犬が支えていたことがほんのわずかなシーンから想像できるのです。

この時代の人たちは現代のわたしたちよりも犬を動物として尊重することができたのかもしれません。

そのことが「できるように犬をしつける」という行為となったのではないかと思うのです。

犬を甘やかしておいて犬が吠えたりいうことを聞かなくなると叱ってそれを止めさせようとする現代の犬との暮らしを、カレンたちはどのように意見するのか聞いてみたいと思いながらこの映画に触れています。

Posted in 日々のこと, 犬のこと

犬たちにも“どろんこパーク”が必要なのではないでしょうか?

NHK制作の「72時間」というドキュメンタリー番組があります。日常の72時間をいろんな場所で撮影した番組で、人々の生活の一部を知ることができ感じることは見た人任せでもあるので、ほとんどテレビを見ることない私でも気になる番組のひとつです。

年末特集として「72時間」の2022年の視聴者ランキングのトップ10が再放送されていました。その1位に選ばれたのが「どろんこパーク“雨を走る子供たち”」でした。

川崎市にあるどろんこパークという市の施設はNPO法人のスタッフが運営する無料の子供たちの遊び場だそうです。

撮影された72時間はほとんど雨続き…。子供たちは雨の中を走り回り、泥のウォータースライダーを滑り、どろんこまみれで遊んでいます。

学校に居場所を見い出すことのできない子供の姿もあって、室内では毎日することは自分が決める、その中で子供たちは今日を生き明日をどう生きるかを彼らなりに考えていました。

見方はいろいろとあるとは思うのですが「子供たちに大丈夫を伝えたい。」という大人の言葉が印象的でした。

どろんこパークでは子友達が遊び方を決める、子供同士の意見のすれ違いも子供だけで解決する、学びの場所でも何をするのかは自分が決める。

やりたいことをするということになりますが、やりたいことがあるというのがやっぱり子供っていいな、ただ素敵なだと感じました。

ただこの子供たちもどろんこパークに出会う前は、やりたいことが見つからない、何をしたらいいのか分からない、何もしたくないといった状態だったのかもしれません。

どろんこパークの遊び場は、ただ土があって草があって木が生えていて、自然の素材でつくったような遊び場的なものがあるだけです。

昆虫を見つけたり、花火をしたり、サッカーをしている子供もいましたが、いつでも自然の中に駆け出すことができるという解放感が室内の時間をも維持しているのではないかと感じたのです。

犬たちはどうなんだろう。

公園での散歩しかできない都会や住宅地の生活の中で、体を思いっきり動かすことができなくてストレスを感じているのではないでしょうか?

室内でボールを追いかけても、それは精神的な解放につながるのでしょうか?

そう考えて思いっきり走ることのできるドッグランに連れて行ったとしても、最初にまとまりのある集団が出来ていなければ、ドッグランはむしろいじめの宝庫となってしまいます。ドッグランなら大丈夫と思わずにちゃんと場所を選んで、ちゃんと観察できる力を飼い主とし身に着けておくことです。

学校に行けなくなった子たちの多くはイジメ行為を受けたということを言っていました。私も都会から田舎に転校したことでイジメを受けた経験があるので他人事とは思えません。

犬が自分たちでやることを決めて、お互いを尊重しながら過ごせるようなどろんこパークのような場所を目指して、オポ広場でどろんこまみれで遊んでほしいと願います。

もちろんオポ広場ではいじめはなしです。最近はちょっとしたグループもできあがりつつあり、新米犬のストレス行動には手を焼くことがありますが、みんなでいっしょに乗り越えようという感じになっています。

どろんこパークに1票を投じることのできる人なら、犬が犬として生きる時間も大切にしてくれそうです。

人のことでいっぱいいっぱい、犬のことまで考える時間などないとは思いますが、飼い主だけは自分の犬のことを考える時間を作って下さい。

彼らはきっと何か私たちに教えてくれているはずだからです。


 

Posted in 犬のこと, 自然のこと

やっぱり犬は飼い主で変わると確信できた一年だった。

今年もまたお預かりの犬たちと七山のオポハウスで年越しを迎えることになりました。

今年最後のブログで書きたかったこと、考えていたのに書き残したことなどをたくさん思い出したのですが、最後のネタはこれになりました。

年末の預かりクラスが始まって、犬の行動を管理しながら毎晩、預かっている犬の飼い主さんには報告書を送付しています。

報告とは犬が今日一日どのように過ごしていたかをお知らせしているものです。

飼い主を喜ばせるペットホテルだったら、犬ちゃんはとてもお利口さんに楽しくすごしていますとだけ伝えるところでしょうが、グッドボーイハートでは違います。

起きていることをそのままお伝えするだけでなく、犬の行動を通して読み取れる犬の状態についてもはっきりとお伝えしています。

興奮している、フセが十分にできない、吠える、他の犬と上手に関われないなど、預けている方の飼い主が聞いたら心配したり落ち込んだりするような内容のことでも包み隠すことなくお伝えしています。

グッドボーイハートの生徒さんたちは、表面的なことではなく本当に犬のことを知りたいからこそうちに預けて下さっているはずなので、ちゃんとお伝えするのが私の生徒さんに対する誠実な態度だと信じているからです。

年末年始の預かりが始まってから新しいメンバーもいたりといろいろと展開があったのdすが、一番印象的だったのは以前の預かりとは全く違う犬がのことです。

その犬くんは子犬のころから定期的に、しかもかなり頻度が高い状態で預かっていました。

子犬のころからすくすくと成長してとても元気で活発な犬になっていたのですが、ここ数回の預かり時には様子が以前とは明らかに違う犬になっていました。

例えば、他の犬とあまり遊ばなくなる、逃走しようとする、ごはんを残す、表情が沈んでおり犬とも人ともかかわりが難しくなっていると感じることが多々ありました。

飼い主さんにはきちんと報告しご自宅でも何か今までとは違うストレス性行動が出ているのではないかとお話したこともあります。

飼い主さんの方でも思うことがあったようで数回の家庭訪問レッスンを希望されて状況を伺っていました。

状況から判断すると、飼い主さんの犬に対する甘えがいわゆる「甘やかし」という犬に対するまずい接し方になっていたようです。

小さいころはちゃんとしつけをしなければいけないという気持ちがあって、犬と距離を保ちながら上手に育てて来ていたのに、犬がちゃんと成長していたずらもなくリードも引っ張らず人について歩けるようになり、吠えることもなく、とてもお利口に過ごせるようになったのでもう大丈夫と、飼い主さんは思ったのでしょう。

それまで抑えていた犬に対して「甘やかしたい」という気持ちがそのまま犬に対して出てしまったことが日常となってしまい、一番大切な犬と人の関係性=主従関係という方向性を失ってしまいました。

人と犬の関係性が依存関係となると犬には不安行動が多発するようになり、他者との関係作りも苦手になってしまいます。

飼い主さんに預かり中に知りえた犬くんの状態についての真実をお伝えして、飼い主さんが変わらなければ犬くんはもっとストレスを抱えて性格も内向きになってしまうこともお伝えしました。

その犬くんが、今回お預かりにやってきたのです。

そして、あの子犬のころに元気に他の犬たちと関わっていた犬くんに戻っていることが犬の行動に表れていました。

他の犬たちと以前のように関われるようになっただけでなく、以前は難しかった組み合うような遊びも怖がらずにできるようになっていたのです。

初めてその犬くんがそうやって犬との遊びを発展させた姿を見て、また不安定だった行動が一転して以前の明るい犬くんに戻ったことを知り本当にうれしく思いました。

飼い主さんに早速連絡して「とても成長しています。」とお伝えしたところ、もちろんですが飼い主さんも自分なりに頑張りました、とても嬉しいというお返事を下さいました。

こうやって一頭の犬の成長を飼い主さんと二人三脚でいっしょに取り組めることに感謝すると共に、やっぱり犬は家庭で育てられているのだ、犬は飼い主次第だということを確信できた出来事でした。

預かりといっても私はあくまで飼い主がどのように育てていかれるのかを、預かりを通して知ったり、知りえたことを飼い主に伝えてどのように接していけばいいのかをアドバイスすることしかできません。

預かったことで犬が変わるということは絶対にないのです。

だから私も飼い主を信じて犬の成長をただ見守ることしかできません。

犬は本当に素直に飼い主であるみなさんの姿を映し出しています。

犬の成長は飼い主の成長であると断言できます。

今年もみなさんといっしょに犬という動物についてたくさん学ばせていただきました。

こんなにたくさん学んできたのにまだまだ学びたい犬のこと、終わりそうにありません。

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外で怖がるのに家では強気な内弁慶な犬は「ダサい」らしい。

内弁慶といえば、外では弱弱しかったりおとなしいのに家の中では強がりや威張っている人のことをいいますが、犬にも「内弁慶犬」というのがいます。

内弁慶な犬という表現はどなたにもわかりやすいようです。

外ではびくびくと他の犬をみると後ずさったり、怖がって吠えたりする犬。

外では飼い主の足元にじっとしていて「お利口さんね」といわれる犬。

そんな犬が、わが家の中ではやりたい放題であることが多々あります。

外でおとなしい内弁慶犬は、飼い主に飛びついたり、家具に手をかけたり、ソファにかってに座っていたり、外の物音に吠えたり、走り回ったりと家の中では好き勝手放題。

まさにわが物顔で、飼い主の家の中のものも飼い主そのものも、自分のもののごとく占領してしまいます。

内弁慶という表現はそもそもは人の性格を表す言葉なので、多少は擬人化しているような表現になりますが、飼い主さんに対する伝わりやすさから私も使うことがあります。

内弁慶犬の犬としての本来の性質は、臆病だけど自己主張は強いタイプ。

ただの臆病で引っ込んだままということではなく、臆病だけど前に出る性質を持っているということです。

臆病という言葉も人の性質を表現する言葉なのでしょうが、人を含む動物はそもそも臆病であることが普通なので、内弁慶犬は単なる臆病犬とは違います。

社会化が発達していない状態、置かれている環境に対して順応しにくい状態にあるという言い方の方が動物としてはきちんと伝わるでしょう。

人と距離をとって生きている野生動物は人や人社会に対して臆病であることは当たり前のことです。

ですが、それが人と暮らすことが当たり前になっている犬という動物にも感じられるとすれば、犬が暮らしている人社会に対する社会化の問題ということになります。

子犬期に特に重要な社会化という学習が遅れたり、社会化が進みにくい環境の中に犬が暮らしていると、犬の社会化が進まないという結果として犬の行動に臆病さがみられるようになります。

同時に、その社会化が未発達の状態は、彼らのフラストレーションとして室内で爆発することになります。それが室内での走り回り行動や無駄な吠えです。

社会化が進まないのは、環境が都市化しすぎているということは言うまでもありませんが、田舎ののどかな環境の中でも社会化に遅れがみられる犬もよくいます。

犬を室内に閉じ込めている時間が長すぎる。

犬をひとりにしている時間が長すぎる。

多頭飼育の場合でも犬と犬の関係性がうまくいっていない。

そして何よりも、犬は飼い主と安定した関係を築くことができない状態にあるということこそ、内弁慶犬誕生理由の上位としてあげるべきでしょう。

そんな内弁慶犬のことを先日生徒さんが「内弁慶犬、ダサい!」と切り捨ててくれました。

私は使うことのないワードですが、なるほどこういうのがダサいっていうのねと納得のお言葉でした。

ダサい内弁慶犬をそろそろ卒業しましょう。

飼い主との社会的関係作り、毎日の一歩、楽しみつつ確実に、よろしくお願いします。

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福岡市の山でトレッキング!犬との山歩きで犬の社会化トレーニング。

急に寒くなった福岡の街。昨日はマラソン大会で右往左往いたしました。

そんな福岡の市内でも犬との山歩きを楽しめるのです。

数名の生徒さんたちと集まってトレッキングクラスを開催しました。


トレッキングが初めてという犬と飼い主さんもいたので、到着してからはまず歩き方の説明から。

いつもの散歩と基本のルールは同じです。

飼い主さんが主導で責任を預かりながら、犬たちはそのお供として社会性を培っていく。

歩道や細い道を歩く前進歩行と違うのは、山では探索行動が入ってくることです。

いわゆる散策ですね。

立ち止まりの回数も増えますし、周囲のにおいを嗅ぎまわりながら環境を把握するのは山を歩く犬の役割です。

くんくんとどんな情報が集まっているの知りたいのですが、特定のシグナルを出していなければまずは安全ということです。

特定の危険を知らせる犬のシグナルとは、立ち止まったり、後ずさったり、吠えたり、唸ったりといった行動です。

山という環境の中で、何か動物が近くにいる、何か危険が迫っていると教えてくれるのが犬の役割です。

生後5ケ月の中型犬や生後7ケ月の小型犬も参加していましたが、いつもの散歩よりもよく歩いていました。


アスファルトの上や都会の喧騒の中で立ち止まる犬も、自然の山道は自信を持って歩いていくのです。

子犬の社会化というのは都会に慣らすことばかりをいうのではありません。

一歩を踏み出す楽しみ、飼い主と共に過ごす楽しく心強い時間、山の中で活性化する原始的な脳、など自然の中には子犬の社会化を育てる素材がたくさんあります。

毎日の散歩での社会化と同時に、定期的な自然の中での活動を織り交ぜていくことが犬の社会化トレーニングには必須だと考えます。

すでに社会化している若い犬たちも今日の山歩きを楽しんでいました。

普段は飼い主さんとの山歩きですが、たくさんで歩くという勉強がここにはあります。

不定期開催ですが、参加を希望される方は直接お知らせしますのでご連絡下さい。

Posted in クラスのこと, 犬のこと, 自然のこと

自然に触れると脳が執着から離れていくという話「武田邦彦先生のYouTube動画から学ぶ」

先日、生徒さんからYouTubeの動画を送っていただきました。

「この内容って、犬のことにも当てはまると思うので見て下さい」とコメントがついていました。

グッドボーイハートの生徒さんたちは本当に熱心に勉強されているので、ときどきこうして情報を送って下さることがありとても刺激になっています。

送付された動画は武田邦彦先生の公式サイト幸せの砂時計という番組のひとつです。

武田先生は科学者、工学者として活躍されてコメンテーターとしても有名、そして現在は政治の方でもご活躍のようです。

たくさんの人が当たり前だと思っていることを科学的に論破されるうえに、その理論的な内容が理にかなっているというか、腑に落ちるという意味で一ファンでもあります。

送られてきた動画の内容の概要は、身内に愚痴をいうものがいるけれど脳に負担がかかっているのではないかという相談でした。

脳の話のところで大脳皮質がうまくいっていないのか、原始脳なのかという話題で相談されていたのが、武田先生周辺の方らしいご質問だと思って聞いて言いました。

武田先生の話では、愚痴ばかりこぼしているお母さんは、まず女性として周囲の環境に気を配る性質があって周囲の環境が気になるという性質を持っているということと、同時に環境があまりにも変わらないことがそのような状態を引き起こしているのだというご説明でした。

愚痴を言わなくなるようにするためには、まずその方が全く違う環境におかれるという経験をする必要があるということ、ショッピングなどもいいがやはり自然に触れるということが一番脳を活性化させるという話だったのです。

愚痴をこぼすという行動の繰り返しが、変化しない周囲の環境への不満に対する態度が常習化してしまったものだという風に科学的とらえるということ。

決して、その方がそのような嫌な性格だと決めつけないということが最初のポイントだと受け取りました。

二つ目は変化を起こさせるために必要なのは、自然に触れる経験をするということ、これが今の生活とは全く違う経験となっておそらく原始脳を刺激して変化を起こさせるだろうろいう、これもまた科学的なアプローチであろうと思います。

生徒さんがこの話に反応してくださって、さすがにグッドボーイハート生、すごいと思いました。

グッドボーイハートでは、犬のストレス行動を犬の性格のままにしないということを大切にしています。

犬が吠えたり咬みついたり、人に執着したりするのは、長い間変化しない部屋の中で人のにおいを嗅ぎ続けた結果、原始脳が退化してしまったからだと考えています。

だから、犬の吠えたりかみついたりといった問題行動を解決するためには、自然の環境に長く滞在して原始脳を活性化させることが大切だと考えていくのです。

そのために、飼い主さんと犬が山歩きをできるように指導するトレッキングクラスをしていたり、犬を山の学校で滞在させるために預かりクラスを実践しています。

オポハウスやオポ広場など山の学校の維持は体力、労力、金力など莫大に必要になりますが、どうしてもこの場所を手放すことはできません。

同時に家庭訪問レッスンで、飼い主さんに犬が家庭の中でどのように過ごすことが安定した生活なのか、犬という動物がどのような動物かを伝えていくことも大切なクラスです。

結果として、福岡や佐賀といった街中では自然に触れる機会がないため、犬の活動はほぼ毎日が休憩時間となるような時間しかないことがわかってきます。

近くに山や自然の広がる公園があるとしたら本当にその犬と飼い主は幸運です。

犬のことをよく学んだ飼い主の多くは、犬を連れて週末に山にいったり自然に触れるための時間を作ることを楽しみにして下さいます。

自然との接触は、犬のための時間のように思えるのですが、実は犬に連れられて私たち人間が動物であることを忘れないようにするために自然に触れる機会をいただいているのだと考えるべきです。

自然から遠ざけられると人は原始脳が閉じていきます。脳の中心にある部分ですから大脳皮質の基盤になる脳です。そこが閉じていくと不安を抱えやすい性質になるのではないでしょうか。

私自身も都会育ちで、小さなことで不安を抱えやすい性質ではないかと自己分析しています。

自分のためにも自然と触れ合う時間が大切なのですが、それを犬たちが支えてくれています。

七山もずいぶんと寒くなりました。外にいるのがつらいと感じられるときもあります。

そんなときは犬といっしょに走るしかありません。

武田先生のYouTube動画、幸せの砂時計で検索して番組をご覧になって下さい。

 


 

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犬に与えるものはオモチャとオヤツ?本当に犬が必要としているものを与えていますか?

山の学校に犬たちを連れてきて数日が立つと、犬の表情や動きに変化が訪れます。

特に山の学校に慣れている犬たちはついたその日から表情に変化があります。

都会の生活で疲れてたのかな、と伸び伸びと活動する犬を見ながら考えます。

山での預かりが初めての犬でも、年齢の若い犬や気持ちの若い犬の変化はとても早く驚きます。

犬のことをあまり知らない人が見ても、ある程度の動物らしい感性を持っていれば、その違いは明らかにわかるはずです。

今やたくさんの家庭室内飼育の犬たちがいます。

屋外飼育よりも室内飼育がいいのかどうかは、家の周囲の環境にもよるので一概には言えませんが、室内飼育によって寒暖のストレスから解放されたことで犬が長生きになっていることも否定しません。

ほとんどの家庭犬は飼い主さんにかわいがられています。

ちゃんとご飯を与えられて、オモチャやオヤツもたくさんもらっています。

毎日散歩に連れていってもらっている犬も多いはず。

どんなにたくさんもらったとしても、犬には足りないものがまだあるのです。

犬が本当に必要としているもの、それは犬の原始的な脳を適度に刺激してくれて、かつ安心して過ごせる自然の中の住処です。

インスタグラムには自然の中の戸建てに伸び伸びと過ごす犬の写真もたくさん出ています。

でも、多くの飼い主はその場所を持っていないし、自然環境のある場所にでかけてゆっくりする時間を持っていません。

忙しく働く毎日の生活の中で、犬のためにお金は使えても時間はなかなかないというのが現実のようです。

忙しい方は、私のように都会と田舎に家を持つということもできません。往復だけで人生が終わってしまうかなと思うこともあります。

他人からどう見られようと自分にとって価値があると判断できることをする主義なので、自己中心的に考えて価値ありと思っています。

何よりも、犬がこうして自然の中でずっと過ごす時間を持つことでこんなに変化するのだということを一番見ることができるのです。

犬のために何かやりたいと思った中でも格別自分を評価できる場所と時間がある、それが山の学校です。

私も自分の犬にオモチャやオヤツをたくさん与えていた時期がありました。

とても忙しく犬のために時間を作ることがなかなかできなくなってきるとますますドツボにはまってしまい、首輪やリードを新調したこともありました。失態ですね。

でも、本当は聞こえてくるオポの声。

欲しいのはオモチャでもオヤツでもないよ、欲しいのは山でいっしょに過ごす時間だよ。

やっと届いたオポの声、引っ越したのは犬が7歳の時でした。

オポが若いころにここに住めていたら…それが人生最大の悔やみです。

都会にグッドボーイハートを作ったあの時間も必要な時間だったのでしょう。

それにたくさんの素晴らしい出会いもいただきました。

飼い主さんが準備できない山で安全かつ楽しく過ごせる場所と時間。

少しだけお役に立てれば幸いです。

オポ広場の犬たち

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犬の攻撃性は本能なのか知性なのか?ローレンツ先生に聞きたい動物の攻撃性について

先日ブログに三島由紀夫と東大生の討論から紐付けて「コミュニケーションと熱量」について書いた記事が意外に好評をいただきました。

記事はこちら→犬への号令がなかなか伝わらないという飼い主への三つのヒント

どんなことでも犬に結び付けて考えしまう癖はすでに自分の中では日常化しております。

前述の三島由紀夫氏の映画を見ながら、もう一つ考えていたことがあります。

それは「犬の攻撃性」についてです。

東大全共闘で大学の一部を占領して陣取り火炎ビンを投げたりバリケートを作って抵抗する学生たちと、それに立ち向かう国家警察間の紛争について、それが「知的な行為」であるかどうかというやり取りがありました。

東大全共闘の深い意味を語るほど理解はしていないのですが、古い権威主義とそれがはびこる社会や団体もしくは国と、新しい主張をもつ学生が対立した結果生まれた紛争という形だということで大きくは間違っていないと思います。

この学生と社会の対立ですが、映画の中でもコメントがあるように紛争の起きた大学が「東大」であったことが社会的に大きな問題なったということです。

日本国内で最も頭脳の優れている人たちが「対話」ではなく「力」を行使しているということが知的な行為なのかは誰もが疑問に思うところでしょう。

暴力をふるう人間は知的ではなくすでにチンピラであるなら、全部捕まえてしまえばいいけれどそうではないから問題なのである、という社会問題です。

では、犬の場合になるとどうでしょうか?

犬が咬みついたら動物であるから本能的に攻撃をしても仕方がないとみられがちです。

人が咬みついて他人にケガをしたら大問題になるところが、犬が人に咬みついても大した問題にはなりません。

そこには「犬だから仕方ない」という考えがあるからです。

犬だからという考えの中には、犬は人間ではない頭の悪い動物だから仕方ないとか、犬は言葉がわからないから咬みついても仕方ない、もっと率直に犬だから咬みつくという考えに至る方もいるでしょう。

ですが、私はそうは思えないのです。

犬は大変知的な動物であるけれど、その知性は人と競い合うような知性ではないというだけなのです。

以前ブログでも紹介した「動物を賢さがわかるのか人は賢いのか?」の書籍のタイトルのとおり、本当に人は自分の物差しだけで動物を測りすぎています。

知性の中には感性というものもあります。

例えば、人は犬ほど鼻が役に立たないなど、人には犬に劣るものはいくつもあるのです。

だから犬が人よりも知性が劣っていると断言づけることはできない。

つまり、犬は知性がないから咬みついたり吠えたりするような攻撃行動をするのだという考え方を私は持ちません。

犬が咬みついたり吠えたりする攻撃性を身に着けているのは、自分や群れを守るための防衛のためであったり、食べ物を捕食するための生きるべき手段のためです。

特にその攻撃性が家族内の誰かに向けられるとしたら、それは犬にとって危機的な状態であり、本来ありえない攻撃性が出ているということになります。

犬が攻撃性を備えているのは当たり前のことで、それをいつどのように使うかは、犬の性質と環境が支配しています。

知性と攻撃性については、尊敬するコンラート・ローレンツ先生がいろんな書籍に記して下さっています。

時折目を通すのですが、なかなかすっぱりとは理解が進まず、もっともっと時間をかけて本の中のローレンツ先生にこのことについて質問したい気持ちでいっぱいです。

三島由紀夫氏は闘争について「一対一の命をかけた決闘であれば暴力はあり」だと言っていました。

犬の暴力も本来はこうしたものであったのではないかと思うのです。

逃げながら咬みつく犬たち。

本来の犬としての尊厳を取り戻してほしい、そのためには犬への理解を深めるしかありません。


 

 

 

 

 

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犬の目の表情が変わるとき、犬の脳の中にも変化が起きている(はず)。

数日前に博多で緊急のお預かりなど数件が重なり、博多から唐津市の山まで犬たちを移動させることとなりました。

窮屈な都心のマンションから抜け出してきれいな空気の流れる七山のオポハウスに到着した犬たちは、移動中のクレートから出た瞬間に「アレ」という体の動きになります。

今までに自然の中で過ごした経験のある犬ほど、到着が昼であれ夜であれ鼻を高めにキープして山の空気を鼻いっぱいに吸い込みます。

「山だ」と感じているように私には見えています。

そしてどの犬も確実に違うと思うのは「目の表情」です。

目の表情というと抽象的な表現になりますが、瞳の輝きというとより具体的でしょうか。

自然の環境の中に入ってそれを受け取った犬は、目が全く違ったものになってしまいます。

犬と共に山歩きなど自然体験を重ねる飼い主さんの中には、犬が山に来ると楽しそうにしていると感じられるからなのかもしれません。

その中には犬の目の表情が家で見るのとは全く違うと思う方もいるかもしれません。

犬の目が澄んで輝きを増しているときに、犬の脳の中にも何らかの変化が起きているのではないかということを推測します。

実際に犬の脳を開けてみることはできないので、題目にも“はず”という期待を込めた表現になりました。

犬の視覚は人と同じではありませんし、犬の視覚は犬の嗅覚に比べると感覚野としての情報源は少ないのです。

だから犬が何かを見てその目を輝かせているというよりは、犬の嗅覚や触覚などすべての感覚を通して得られた情報から犬の脳が活性化し、それが結果として目を開かせるという状態となっているのだというのが私の個人的な見方です。

山にきた犬の目の表情が変わるのを見るとき、コンクリートやアスファルトに囲まれた都会の空間の中で死に果てている犬の脳が、土や木や草がある山という空間の中で生き返ることを確信できるのです。

そして、ああよかった、この犬の脳と心はまだ生きていると思えるうれしい時間でもあります。

老朽化したオポハウスのリフォームは続きます。

犬たちの時間を取り戻すためにまだまだ頑張ります。


 

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犬のしつけは“辛抱強く”“我慢強く”。犬はやはり飼い主に似る。

先日、移動中のラジオで「やせ我慢という言葉は今の若い人には伝わらない」という話を聞きました。

我慢をする必要がないから想像がつかないということらしいのです。

スポーツ流行りのド根性世代のわたしくらいの年齢の人なら、根性とか我慢とか辛抱といったことはある程度は体験したことがあると思うのですが。

最近では子供に我慢をさせることとはあまり美徳とはいえない風潮があることはなんとなく感じます。

子供に食事を制限するような虐待と我慢をさせることは全く別のことなはずですが、教育のつもりで子供を死に追いやってしまうような事件が起きると、どこまでが教育なのかという議論が始まり、子供に我慢をさせることに不安を抱える親も出てくるでしょう。

犬育ても同じように、犬を我慢させることができない飼い主が増えています。

例えば、犬がお腹を空かせてしまうのをかわいそうだと思うために、定期的に食べ物を与えてしまう飼い主もいます。

犬にオスワリといってもしなかったら、させるのはかわいそうだという飼い主もいます。

しかし、犬のしつけというのは「犬ができるように飼い主がサポートすること」が大切です。

犬ができるようにというのは、何もスポーツや芸などの特別な行動ではありません。

むしろ、日常生活で毎日繰り返される犬にとって大切な活動、例えば安心できる睡眠、大切な食事、楽しい散歩、リラックスした空間での休憩です。

そしてこの日常生活を支えているのが、犬の飼い主との関係なのです。

犬が飼い主を自分の主人として心地よい主従関係を結び、飼い主の適切な合図に行動できるようになっているなら、日常生活は安心した空間となっているはずです。

ところが、多くの犬たちは飼い主の間違った可愛がりによって主人を失い、不安定な気持ちで過ごさなければならなくなります。

この不安定でストレスまみれの犬を立ち直らせるためには、飼い主が犬にとって価値のある主人(=飼い主)であることを伝えるための練習が必要なのです。

それが、リードで正しく歩くこと、オスワリ、フセ、マテ、オイデといった合図に従う練習です。

この練習は、なんども繰り返す必要がある行動練習で、犬のトレーニングでは服従訓練といわれたり、オビディエンストレーニングといわれます。

本当に古典的な呼び名だなと思うのですが、犬と人が密接に暮らすために編み出された文化のようなもので、確かに関係性を高めてくれます。

練習の成果は、グッドボーイハート生で自分は頑張ったと思う飼い主なら自分の犬の行動の変化としてだけでなく内面の成長として出てくるはずです。

やるだけやって思うのは、結局辛抱強く頑張らなければいけないのは、犬ではなく飼い主の方であるということです。

飼い主が我慢強く、辛抱強く頑張るから、結果として犬もそうなったとみることができます。

繰り返し練習など面倒と思う飼い主がいう言葉は、「どのように叱ればいうことを聞きますか?」です。

「吠えたときにどのようにすればいいですか?」

「噛んだときどのようにすればいいですか?」

これは、練習をしない飼い主の逃げの言葉のように聞こえます。

そう考えるなら、犬とともにリードを持ってもっともっと歩く練習をしましょう。

我慢強い飼い主には我慢強い犬が育つ。

やはり、犬は飼い主に似るのです。

ローレンツ先生がそう言っているのだから間違いありません。

時代に合わない我慢も、犬という動物には必要なものだと思います。


 

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