数年前に亡くなったオポのことを思い出していました。
実は誕生日が4月20日だったのですが、生徒さんから「食いしん坊だったオポさんのお供えものに」とどら焼きが送られてのです。
郵便で受け取ったので封を開けたときは本当のどら焼きだと思ってしまったので、あとで自分が食べようなどと思ってしましました。
よくみるとそれはどら焼きに似せたロウソクでした。
食いしん坊なのは飼い主の方であったことを確信します。
犬はただ飼い主に似ていただけなのかもしれないと。
ブログにもたくさんオポの思い出を記しているので、今でも生徒さんたちからよくオポのことを尋ねられます。
生前オポと交流してくださった生徒さんたちは口々に「オポさんは犬以上でしたからね」とお褒めの言葉なのかわかりませんが、とにかく不思議がられます。
そのオポのことをいつまでも忘れないでいたいといういう気持ちで、グッドボーイハートを守る山の名前を尾歩山(おぽさん)と名付けました。
なかなか良い名前になったと満足しています。
その尾歩山ですが季節とともにみどり色に色づいてきました。
今日も午前中は生徒さんの犬ちゃんといっしょに山を歩きながら、犬のことや自然と過ごす工夫のことや人のことなどを少しずつお話しながら考えたり悩んだり。
トレッキングに見られる犬の行動が変化したり変化しなかったりといろいろありますが、こうして犬と一歩ずつ歩いていくのが現実を進むということなのだと実感できる時間ではあります。
その景色が季節によって移り替わることを楽しめたり、苦しんだりしているだけなのかもしれないのです。
それでもいっしょに過ごす時間というのは貴重なものです。
元気をいただいて午後からは福岡へ訪問レッスンをウロウロと回りました。
こうして山でオポのことを思い、今までにであった犬たちのことを思う時間があるから私は本当に幸せものです。
すごく単純なことなのにすぐにこんなことを忘れてしまいます。
もう一度思い出して、今ある思い出と今ある出会いを大切にして、得られなかったものと手放したものを追い求めず、別れるときには感謝していられる自分でありますように。
Author Archives: miyatake
<日々のこと>尾歩山を歩きながらオポのことを思ったこと
<犬のこと>犬にとって一番辛いこと、やっぱりコレかな。
タイトルが少し重々しい感じなのでできるだけ長文にならないように気を付けながら進めてまいります。
このブログを熱心に読んでくださっている犬の飼い主さんなら、犬にとって必要なことは何か、犬を理解するために知っておくことは何か、犬の幸せって何だろうということを真剣に考えてくださっています。
すでにその方向にはたどり着かれているので、あえてここで犬の不幸について語るのはどうかと思いつつ、この部分だけは動物にかかわるものとして知る必要のあることだと思うので、一緒に考えたいと思います。
ズバリ、犬にとって一番辛いことって何でしょうか?
ドッグフードしか食べさせてもらえないこと?
お母さん犬と引き離されてしまったこと?
散歩に連れていってもらえないこと?
留守番がとても長いこと?
飼い主の愚痴を聞かされること?
自由な時間がないこと?
と上げてみると、犬って結構不幸かもしれません。
どれも一番辛いになりそうなので、一番という言葉を取り除いて考えます。
上にあげた不幸かもしれない状況に共通していること、ゴハンを除いたその他にはなりますが、共通点は「孤独」です。
犬にとって最もつらいことは「孤独」であることではないでしょうか?
動物にとって孤独であることは不安を生み出します。
不安をたくさん生み出すと精神的な病気になり、異常な行動を引き起こします。
わたしたち人の社会でも考えられない行動をする人の人生は、思った以上に孤独であったということではないでしょうか。
家族がいても孤独なこともあるし、表面的に友達が多くみえても実際には孤独であることもあります。
孤独は社会的な生活を必要とする動物の精神を壊してしまうのです。
犬は大変社会的な動物なので、孤独であることは犬の精神を壊してしまいます。
ただ単純に留守番が長いから孤独を生むというわけではありませんので安心してください。
確かに長い時間の留守番は孤独を生みます。
でも一日中飼い主が付き添っていたから孤独ではないかというとそんなことはありません。
犬が分離不安傾向にあって人や他の犬に吠えるような状態であれば、どんなに飼い主のひざでべったりと過ごしていてもやはり犬は「孤独」なのです。
逆に留守番時間がとても長い犬であっても、飼い主が一生懸命働いていて犬と真剣に向き合って過ごす時間を持ち続けていれば、犬にはそのことがよくわかるようです。
働く飼い主の帰宅まで留守を任されていたり、気配を消してがんばっている犬たち。
犬と過ごす時間には真剣に向か会って誠実に共に過ごしてくれる飼い主さんといる犬であれば、留守番時間の長いことはなんとか乗り越えていきます。
ところが飼い主さんが犬とひと時も離れずに過ごしていても、その理由が自分の不安を埋め合わせするような行為になると犬も孤独な飼い主と同じように孤独になるだけです。
犬は社会性の高い動物です。
ただ誰かとべったりと過ごす狭い世界に閉じこもることは危険なこと、ある程度開けた環境の中で社会生活を楽しめるような犬の生活はどのようにしたら得られるのか、自分の環境の中で各自が考えてほしいことです。
<犬のこと>犬のための家ってどんな家のことだろう
久しぶりに本屋さんでブラブラする時間をもらえました。
見たいコーナーはある程度決まっていて、動物学、自然学、環境科学、東洋医学、発達そしてインテリアです。
基本的な関心が動物の不思議や幸せにあるので、読む本もそんな本ばかりです。
なのになぜインテリアコーナーなのかというと、これはあくまで趣味です。
実は犬の訓練士(当時はドッグトレーナーとかドッグインストラクターなどといったカッコいい名前はなかった)になりたいと思ったのが中学生のときですが、小学生まではインテリアデザイナーになりたいと思っていました。
理由はすごくシンプルだったと思います。
小学生のとき東京都内に暮していて少しだけおしゃれなケーキ屋さんでケーキを食べたときその店内の素敵な空間に惚れたのです。
母親に、このお店の中って誰がこんな風にするの?と尋ねたところ、それがインテリアデザイナーであることを教えてもらって即決しました。即決するあたりが小学生です。
なぜか空間の心地よさが気になるのです。同じように居心地の悪さにも敏感です。
話を元に戻しますが、本屋のインテリア本コーナーにやよく立ち寄ります。
買うまでではないけどただチラ見したいという欲求を満たしてくれるのはやはり本屋さんです。
そこでなんと犬の本を見つけました。
犬のための家づくりの本はなんどか見たことがありますが、また新たな本が出ていたのです。
おそるおそる本をめくってみて、ああやっぱりかと愕然としました。
そこに書かれてあることの一部は絶対にやってはいけない犬の環境作りだからです。
なぜ絶対ダメと言い切れるのかというと、犬の習性に反しているためです。
犬という動物との暮らしの中では、人と犬はできる限りお互いに協力しあっていきたいものです。
そうであっても人側が有利なことに変わりありません。
人の都合で出たり入ったりするわけですし犬の居場所も飼い主側が指定します。
高級な無垢の家具は犬にとってはかじりたい欲求をそそるものなのに、それをかじることはご法度です。
帰宅したら足を拭いて上がらなければいけないことも、犬にとっては理解できないことですが室内に入る限り協力するしかありません。
そんな偏りがちな生活の中、犬にとって快適な空間を作ることは難しいことだということを前提としても、あまりにも人の都合に立った考え方なのに「犬のために」などという題名が付けられていることにちょっと腹が立ってしまいます。
それだったら最初から「人のための犬と暮らす家づくり」という題名にしていただければ腑に落ちます。
具体的に何が絶対にダメだったのかというと、犬部屋らしきものが作られているケースが多くありました。
実際に作ってある家のお写真なのですが、犬はサークルやケージを使って犬の部屋に置かれています。
むしろサークルやケージを大変大きなものにして、こんなに幸せに生活していますよという感じなのです。
お決まりのトイレトレーもサークルの中に入っています。
これではいっしょに暮していることにはなりません。
トイレの設置が室内に指定されているものが多くありました。
庭があるのになぜ室内トイレなのでしょうか?
犬の脚裏が汚れるのが嫌なのか?散歩に連れていかないというルールなのか?本当に不思議です。
フローリングが滑りにくいように床素材を整えたり、カーペットを敷くというものであれば賛同します。
滑りやすいからといって脚の裏毛を切りすぎたり、爪を切りすぎたり、靴下をはかせたりという人の都合による発想になるようでしたら自分の考える方向にご注意ください。
犬はそもそも屋外で活動し屋内は休憩する場です。
人は脳内活動を持っていますので、室内でも活動しますし、最近は室内で運動もしますね。
でもやっぱり犬は外で体と脳を活動させて、室内では休憩する動物です。
犬のためのインテリアコーディネーターにだったら今からでもなれるでしょうか。
ドッグインテリアコーディネーター…真剣に考えてみます。
<クラス>初めてのトレッキングクラス:自然とつながるツール持っていますか
春だからお天気の乱れのあることは仕方のないこと。
でも週末のトレッキングクラスに雨が降るのはちょっと避けてほしいところです。
だけど雨にかぶってしまいました。
せっかく成長期の子犬ちゃんがトレッキングクラスに来てくれたのだから、せっかく飼い主さんが遠くから七山に足を運んでくださったのだから少しでも楽しく過ごしていただきたいという気持ちだけで頑張るしかありません。
子犬の成長期には散歩に出てもなかなか公園で排泄ができないことがあります。
公園で排泄するというのは、自分のにおいを置くことで他の犬に自分の存在を知ってもらうこと。
「我ここにあり」を宣言するのですから、まだその準備ができていない子犬は警戒して排泄を外ではしません。
七山に起こしいただいたときに排泄をしないで帰ってしまうこともあります。
子犬でなくとも成犬であっても、内向的な行動パターンとして現れるのです。
今回はじめてのトレッキングクラスを体験してくれた犬ちゃんもまだ散歩中に公園で排泄をすることができていませんでした。
トレッキングの前に預かり場になっているお庭で環境を確認させて行動を観察すると、すぐに排泄をする気持ちがあることがわかりました。
無事に排尿と排便を済ませて犬は少しスッキリして安心を得た表情になります。
雨がなかなか降りやまないので雨具を着て尾歩山へと歩き始めます。
子犬ちゃんは臭いとり行動の連続ではじめての現場での探索行動の開始しました。
犬が臭いをとりながら歩いていると、何を臭っているのだろうと想像するしかありません。
きっとその犬の脳内はものすごい情報処理に追われていて、脳が活性化しているのでしょう。
いつものちょっと頼りない表情の子犬ちゃんが、なぜかたくましく見えてしまうのです。
雨の日でも里山への動物活動は活発になりがちです。
雨の日は人の活動が抑えられることを、動物たちは知っているのかもしれません。
雨足の音で獣の気配が聞き取りにくくなるので、こんな日はなんども犬の方を確認して犬の感知能力に頼ってしまいます。
でも今日は子犬ちゃんしかいない。
子犬ちゃんにはなかなか難しいことですが、それでも犬ですから人の能力など比べようがありません。
山を歩くことを楽しいと感じられるかどうかは、山にいるときのその動物の脳が開かれるかどうか、ただそれだけです。
犬も人も同じ動物です。
でも人の方は犬と少し違います。
山を歩いているときに脳が活性化するかどうか、人によっては個体差が激しいようです。
自然とつながるツールのようなものが引き出されやすいタイプの人と、あまりにも奥にしまいすぎて自分が動物であることすら思い出せない人の差は歴然としています。
犬が人と暮らすときに、どちらのタイプの人と共にいることが楽しく幸せであると感じられるでしょうか。
犬はいつでもはだしで山を歩ける裸族なのです。
共感性が発揮できやすいのは、前者の方でしょう。
だから、トレッキングに来てくださった飼い主さんが「気持ちがいい」「楽しい」と感じて下さるとすごく嬉しくなってしまうのです。
よかったね。あなたの飼い主さんはきっといつかあなたと深い関係になってくれるその素質を十分に持っていると犬に知らせてあげたくなります。
私から助言されなくてもそのことを一番わかっているのは犬の方です。
特別な時間を過ごしてこの日はゆっくりと休めたでしょうか。
また都会での厳しい生活が待っています。
でも、次の山行きを楽しみにしているのは、犬だけでなく飼い主さんもいっしょになりました。
そんな時間が信頼関係を築き上げていくということです。
<日々のこと>自然と共に生きる「またぎ」の番組を見て思うこと
自然と共に生きている人、自然と共に生きようとしている人の姿を見ることで励まされることがあります。
自分の周辺の社会がまだ文明に侵されておらず、今でも自然のひとつとして生きている部族の方もいます。
そうではなく、すでに自分は文明社会の一員となっているのだけど、どうにかして自然の一部として生きようとしている人の姿に励まされるのです。
先日、テレビのドキュメンタリー番組で東北の熊と共にきるまたぎの姿が紹介されていましたので食い入るように見ました。
熊を探し、そして撃ち、そしてそれを感謝していただく。
熊を撃って手にいれたときは「山の神」という言葉で山の恵みをいただけたことを表現される。
手を合わせて弔いの儀式を行い、感謝してまたぎの方々全員に平等にその恵みが分け与えられる。
遠い日本の暮らしの一部をこの食べ物が豊かな文明の中で続けていくことの意義は、実際にそのことに携わったことのない私などには計り知れません。
今回のまたぎのそばには犬の姿はありませんでしたが、きっとこれが毎日の生活だったとき、またぎの傍には片時も離れずについていた犬の姿があったはずです。
人は熊撃ちの営みを続けられるまで続けていこうとされる中、犬たちはもうその場から姿を消してしまったと思うと悲しくなりました。
都会で幸せに生活をしている犬たちには、それぞれの幸せがあり熊撃ちの犬になる必要はありません。
熊撃ちの犬も都会の犬も同じ犬であるということを忘れたくないだけです。
自分も自然から離れて文明社会で生きているヒトという動物です。
自然に近づきたいと犬いっしょに山を歩いたり、竹を切ったり、草を刈ったりするのが精いっぱいです。
そんなわずかな時間でも、犬が犬として過ごす時間を共有することができることに幸せを感じます。
はだしで山を歩いて、獣のにおいを嗅ぎつけて、竹藪に顔を突っ込んでいくような、そんな犬の姿にワクワクしてしまいます。
熊撃ちの方に「なぜ熊を撃つのですか?」という質問をされていました。
生活のために必要のないことをなぜするのかという意味でしょう。
ハンターという音でいうと趣味的な要素が強くなりそうですが、またぎ達はハンターとは言われたくないといいます。
なぜ熊を撃つのか?にはっきりとした言葉はありませんでした。
当たり前だと思うのです。
なぜ山を歩くのですか?と聞かれているのと同じことです。
そこに答えはありません。
楽しいからでも、健康になるからでも、やせるからでも、疲れてよく眠るからでも、長生きできるからでも、最初はなんでもいいのです。
でも最後は答えは必要ではなく、ただ生きているから、そんな感じです。
山歩きには最高の季節が続きます。
花粉症の方も逆療法であえて山入りしてください。
またぎと比べることはおこがましいですが、犬たちはいつでも山とひとつになれそうです。
<犬のこと>春の落雷を怖がる犬の飼い主さんに伝えたいこと
数日前の夜中に春の嵐が通り過ぎました。
七山でお預かりクラスの犬ちゃんもいたので、様子を伺いつつ嵐の収まるのを待ちました。
七山では落雷が頭上から真っ逆さまに落ちてくるような地響きがして、家が振動で揺れるかというくらいの衝撃がありますので、慣れてはいるもののいつでも駆け出せる気持ちでいます。
ところが、犬たちの方は少し様子が違います。
今までなんども雷が苦手という犬を七山に迎えたことがあります。
トレッキングクラスだったりヒーリングクラスだったりお預かりの時であったりと状況は様々ですが、犬が極端におびえる様子になることはあまりありません。
自宅で雷が起きたときには雷恐怖症かと思われるようないろんな行動が出る犬たちも、なぜか七山では落ち着いているのです。
犬の雷恐怖症とみられる行動は、その段階によりますが次のような行動があります。
震える
隠れる
よだれが出る
走り回る
目を見開く
飼い主について回る
吠える
戸口から出ようとする
何かにかみつく
失禁する
行動から状態を察するところ、恐怖、闘争、逃走の状態に入っています。
これは動物が環境にストレスを感知したときに陥る状態です。
犬だけでなく人も同じ状態にいたりますので、もし自分がそのような状態にいたったと考えると犬が受けているストレスを判断しやすくなるでしょう。
いったんこの状態に入ってしまうとそこから脱出されるのはなかなか大変です。
雷の場合には一定期間はその環境を取り除くことができないのですから、犬のストレスレベルは上がっていきます。
雷が鳴り始めると、犬たちはどうしているだろうかと少し気がかりになります。
犬たちというのは生徒さんの犬のことで、自分の犬のことではありません。
犬は雷が苦手なのが当たり前と誤解されることもあるようですが、動物がいちいち雷に逃げ出していたら山で生きていくことはできません。
犬が雷に強く反応してしまうのは、犬を取り巻く環境や犬の内面の環境、つまり情緒的な環境がまだ安定していないということです。
雷恐怖症の犬の飼い主さんは、まだ犬に対してできることがあるということを前提に取り組んでください。
雷恐怖症には薬を使われることもありますが、あくまで対処法ということで常用することないよう環境改善に目を向けていただきたいのです。
このことを前提として実際今雷が起きたら落ち着かない犬を落ち着かせるために何をすればいいでしょうか?
犬が一番落ち着ける場所に戻してあげることがまずできることです。
グッドボーイハートの生徒さんたちならクレートトレーニングは完璧に出来上がっているはずです。
犬をいったんハウスに戻して落ち着きを取り戻しすよう促します。
来客や他の興奮を収めるのと同じ方法でやってみてください。
逆に犬に対して決してやってはいけないことは何でしょうか?
宿題にしたいところですが、ムズムズしてしまう人は最後の答えを見てください。
普段の生活や家庭では雷に怯える犬が、七山では怖がらない理由については自分で考えてみてください。
本当にそれを知りたければ、犬といっしょに山で過ごす時間を作ってみることです。
いっしょに過ごせばその意味がわかります。
雷に怖がる犬にやってはいけないこと
犬を抱きしめること
犬を抱きあげること
犬をなでること
犬に声をかけること
このような犬をなだめるような行為はしないでください
このなだめる行為は人のような接触の多い動物では有効な場合があっても、犬にとっては不安の要素を高めるだけです。
<クラス>「同居犬と上手くいかない」多頭飼育でお悩みの方、犬同士に任せてはいませんか?
グッドボーイハートの家庭訪問トレーニングクラスは3頭まで料金が変わりません。
60分の家庭訪問クラスを10回のチケットをご購入の場合には、お時間でいただいているので3頭までは対応させていただきます。
そのせいかもしれません、多頭飼育されているご家庭からのトレーニングクラスの依頼がよくあります。
家庭犬のトレーニングを始めて20年立ちます。
その間犬と人の暮らし、特に福岡地域の流れについてはずっと経過を見てきたのですが、多頭飼育は確実に増えていると思います。
理由のひとつ目は、飼われている犬のサイズがかなり小さくなってきたことです。
二つ目は、犬の留守番時間が長いためひとりでは寂しいだろうということで2頭とか3頭を飼われることが多いようです。
同胎犬を2頭迎えるという場合もあるし、1歳とか2歳の犬がいるご家庭に新しく子犬を迎えるケースも多いですね。
先住犬がいるご家庭に子犬を迎えたけれど、犬同士があまり仲良くなれないというご相談も多々あります。
人の兄弟や姉妹でも仲良しばかりではありません。
仲良く遊ぶ兄弟もいれば、喧嘩ばかりの兄弟もいます。
犬は人と同じ理由で喧嘩をしているわけではありませんが、人の兄弟よりも犬の同居犬同士のトラブルはどちらの犬にとってもストレスの多い不幸なことです。
この多頭で暮らしている犬と犬がうまくいかない問題について、犬が問題だと思われていることがあります。
子犬が元気すぎるとか、乱暴すぎるとか言われることはよくありますが、子犬は基本的にわがままで自制が聞かず、興奮しやすく、とびついたり甘噛みしたりしてくるのは正常な行動です。
それに対して先住犬がどのようにふるまっているのかということがまず観察事項です。
もしも、先にいる犬が10歳を超える老犬であれば、社会的な活動を縮小させる時期なのであまり期待せずに住み分けを考えてください。
もし先にいる犬が10歳でも元気だとか社会的に活動できそうな状態であれば、それより若い成犬たちと同じように観察していきます。
成犬の子犬に対する行動はどうでしょうか?
子犬を自分のグループの一員として受け入れようとしているのか?もしくは拒絶して追い出そうとしているのか?いずれかです。
子犬は成犬から拒絶される行動を受けると、犬としての社会性にゆがみが生じ、成長してから(1歳を超えたくらいから)他の犬に吠えたりうなったりする攻撃性を示すことになります。
行動に現れるまでに時間がかかるのです。
子犬が来てから1年近くたってからなので、なかなか先住犬との関係が他の犬への社会的行動に結びついていると考えることができないかもしれません。
ですが、犬のどのような社会的行動も、そのベースは家庭内の一番小さなテリトリーの中で作られているということはもはや真実です。
人の他人に対する態度を学校の先生に教えてもらおうとしても難しいのです。
それは社会性ではなく社交性であって、人の力にはなりません。
社会的な態度という真の社会性は家庭の中で作られている、これがベースです。
成犬がまだ若く大人としてうまく対応できず、子犬といっしょになって興奮してしまったり、お互いの攻撃性を高めたりする結果になることもあります。
犬同士が体をぶつけあうプロレス遊びですが、適切に介入していかないと犬はただの攻撃性の高い犬になるだけです。
多頭飼育の問題は、犬同士で解決することはありません。
そこには人という大親分がいて、その家庭の中で行われていることは人とそれぞれの犬の関係性なくしては語れないのです。
犬が寂しいだろうと思って新しい犬を迎えても、今の犬と飼い主の関係が安定した信頼関係でなければ、子犬が来ることで余計にトラブルが増えて犬のストレスが増すだけなのです。
多頭飼育となりトラブルが始まったことで家庭訪問トレーニングクラスを受講される方も多いので、クラスを通して犬のことを学んでいただく機会をもっていただけたことだけは好機に恵まれたなと思います。
なにかきっかけがないと犬のことなど学ぶ機会はないでしょう。
犬と暮らしているという理由だけでは、犬のことを学ぶ機会にはならないのです。
みなさんにとってとても大切な存在なのに、たくさんの知らないことがあるのはもったいないことです。
なぜ犬が思い通りにならないのだろうという考え方の場合には、なかなか先にはすすみません。
問題を解決するために何かをすると改善しそうだけどしないのです。
犬は知っているのです。自分が本当に愛されているかどうかを。
犬はなんでも知っています。
多頭飼育で上手くいかない方も、まだ諦めないでください。
犬たちにとってもこの犬生は一回限り、生まれ変わってから幸せになるよりも今幸せになってほしい、そのためにできることはまだたくさんあります。
<クラス>トレッキングクラスと竹切りお疲れ様でした
春のこの季節、グッドボーイハート七山のトレッキング中に目につく伸びすぎた竹たちをお手入れしました。
トレッキングクラスの後、有志の生徒さんたちにご協力いただいて決行です。
竹を切るのこぎりやら大きなハサミなど、普段の生活の中では使うことのない刃物を使っていただくのでケガをされないかと心配しつつも、やりながら上手になっていくことがきっとみなさんの将来に役立つはずだと思い込んで応援しています。
この竹切り作業中、番犬を任される犬たちは作業から安全かつ敷地を見渡せる場に配置されています。
番犬のできそうにない犬たちにはそれぞれのハウスに待機するなどのお役目もあります。
犬も適材適所ですからそれぞれの性質や状態にあった仕事を任されることで成長の機会を得られます。
どんなに小さな犬でもみんなが頑張っているときには協力することを求められます。
普段ならわがままをいいそうな犬ちゃんでも、人が命をかけて仕事をしているときには黙って手伝ってくれるものです。
山の手入れは本当に命がけなので、見ている犬の方も真剣モードになれるのかもしれません。
孟宗竹はものすごい重量でして、切り倒して倒れてくるときにケガをしたら大変です。
また竹は用心しないと切目が鋭利で武器にもなります。
なんどかヒヤッとする思いをすると、嫌でも慎重にならざるを得ません。
数名の女子部での作業になりましたが、本当にスッキリとしました。
グッドボーイハートが七山に学校をもって12年になります。
この12年間、たくさんの人がこの山の手入れを手つだって下さいました。
ここに育っている森は、決して私ひとりでは育てることのできなかった貴重な場なのです。
だからこそ守り続けたいと思い、この尾歩山で犬たちの生命がワクワクするのをこれからも見たいと思います。
作業の後のお昼ご飯は最高に美味しかった。
そして、作業を手伝ってくれた犬たちの姿にまたうれしさを感じました。
4月から5月にかけてもう少し頑張っていきます。
<犬のこと>日本が起源かもしれない愛玩犬はいつから普通になったのか?
愛玩犬(あいがんけん)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
その意味をネットで検索して調べていみると「ペットとして飼う犬」とか「主に室内で愛玩のために飼う小型犬」などとあります。
自分のそばにいる犬のことをペットとして認めることは普通であっても、愛玩犬といわれるとそうだと言えない方も多いのではないかと思います。
愛玩とはつまりオモチャということですから、自分の犬をオモチャ変わりだと位置づけられるのと同じことですから抵抗も生まれてしまいます。
この「愛玩犬」という言葉をめぐって先日家庭訪問クラスのときにあることが起きました。
犬の説明の中で「愛玩犬として育てられるのであればこうした犬になるかもしれない」といった説明をした際に、説明を聞いていた飼い主さんが「あいがんけんって何ですか?」と質問されたのです。
愛玩犬とは、えっと愛玩する犬ということですよ。ペットといわれるよりも特殊な言い方で…と説明に窮しました。
飼い主さんになかなか愛玩犬の意味が通じずにいたところ、その飼い主さんが高校生までしか日本におらずその後海外で生活していたことがわかりました。
それで「愛玩犬とはつまりtoy dogといったらいいでしょうか?」と切り返しました。
そうするお「オー!トーイドッグっね」となんとなく小型犬のイメージはつかめてくださったようです。
そちらには愛玩犬という言い方がないのですね、といって私の方も納得しました。
愛玩犬とは日本が創ったひとつの犬の生き方のようなものかもしれないとも感じたのです。
小さい犬といっても欧米にはテリア種のような活発に仕事をする自律した犬たちもたくさんいます。
チワワはテリア種には含まれていませんが、スムースのチワワは南米では日本の雑種のように普通に番犬をする地域犬でした。
人に抱っこされることを目的とした犬は欧米では珍しいです。
むしろ、犬をそのように愛玩目的に扱うことが一般的でない犬の文化というのを持っています。
愛玩犬が国内で広がったのはある仕組みがあってのことでした。
また次の機会にお話ししていきます。
グッドボーイハートは20年を迎えます。感謝
新しい元号が発表されました。
気持ちがひとつ前に進みつつ過去を懐かしんだりと人は相変わらず欲深く生きています。
欲深いことは悪いことばかりではなく、その欲深さのために文明を発展させてきたのもまた人という動物です。
そしてその人にもっとも近い場で人を観察しながら、自らも人の生活の中で変化し続けている犬という動物がいます。
その犬のことを知りたくて中学生のときに「犬の訓練士」になりたいなどと思ってしまいました。
そこから長い月日が流れ、自分で犬の学校を始めることになったのが今から20年前です。
名前はグッドボーイハートと名付けました。
当時共に暮らしていたオポという犬が私の要望をうまくくみ取ってくれたときに最初に使っていた音が「グッドボーイ(good boy!)」という音でした。
その言葉を投げかけた犬という動物を心から愛したいという気持ちでつけた学校名です。
それから今年で20年を迎えます。
元号は変わってしまいますが、そのときの気持ちは今でも変わりません。
変わったのはいっしょに学校をはじめたオポが別の世界へ行ってしまったこと。
でも、今でも新しいたくさんの支えがあってこうしてグッドボーイハートを続けながら、いまだに犬のことを学んでいることに改めてありがたい気持ちになります。
こうして何十年も学んでいるのにまだ終わらずに学び続けていることが不思議でならないのですが、答えを出すために学んでいるのではなく、学ぶことがただ楽しくて学んでいるのだということに少し前から気づきはじめました。
これからいつまで続けていくのかなど、未来のことは全く考えていません。
ただ、グッドボーイハートを必要として下さる人や犬がひとりでもいる限り続けさせていただきます。
いつもありがとうございます。