梅雨の晴れ間なのでしょうが、長い晴れ間が続いていて犬たちも心地よい時間を過ごせているようです。
最近、訪問レッスンに伺ったご家庭で手作りの犬小屋や犬の休憩小屋を見せていただきました。
マンションのテラスに設置されたヒノキ素材のすのこを器用に組み合わせた小屋を犬ちゃんは気に入っているらしく、レッスンの途中でも小屋に入って休む姿を見ることできました。
別のご家庭では、手作りの犬小屋が仮設置状態で犬ちゃんにとってはお試し住居といった様子を拝見できました。
こちらの小屋の方は塗りたてのペンキの匂いに反応して若干の警戒を示している犬ちゃんに「イメージと違う」と試行錯誤する飼い主さんの姿もありました。
こうして居心地の良い犬の居場所を自分の住まいの中に提供しようと工夫したり時間を割いたりすることこそ、まさに犬と暮らす楽しみのひとつではないかと思うのです。
相手の立場にたって、どうやったら犬が心地よい時間を持てるのだろうと考えること。
犬にとって必要な空間とはどのようなものなのだろうかと考えること。
そうすることが、結局は「犬ってどんな動物なんだろう」と考えるきっかけを与えてくれます。
この空間づくりによる犬の安定は、おやつやおもちゃを与えて犬を喜ばせることとは根本的な違いあります。
心地よい時間は犬だけのものであり、飼い主がその場所で犬が得られる満足を奪うことはできません。
そしてその犬の心地の良さを犬を遠くからみながら「気持ちが良さそうだな」と感じてうれしくなる程度です。
そういえば、私も中学生のときに柴犬が家にやってきたときに、スヌーピーのあの赤い屋根の小屋の中に入ることを願って、父の知人に頼んで手作りの小屋を作ってもらいました。
その赤い屋根の小屋に犬が寝る姿を見ることはなかったので、犬小屋としては今一つだったのでしょう。
犬の訓練士となった今では当時の私に教えてあげたいことがたくさんあります。
犬には犬として過ごす時間が必要なのです。
風のとおる場所、ひとりになれるスペース、太陽にあたりながらの日向ぼっこ。
大切な時間をみなさんのご家庭でどのように過ごすのか考えることを楽しんで下さい。
Author Archives: miyatake
手作りの犬小屋を見て思う、犬との暮らしを楽しむということ。
競争馬を蹴ったと非難する前にもっと深読みしてほしいこと
競馬の競争馬を見るのが好きになったという方からテレビ中継された競争馬の話を聞きました。
ところが馬の話は最近あったらしい事件のことになりました。
競馬のテレビ中継でパドックに入るのを嫌がる競争馬を引いている人が馬を叩いたり蹴ったりするシーンが放送されたらしいのです。
競馬は賭け事だけでなく馬が好きな人が見るスポーツでもあるので、その光景を見て嫌悪感を覚えるのは当然のことでしょう。
しかしこの話を聞いて私はもう少し別の考えもあってはいいのではないかと思いました。
私ならこうも考えます。
競馬馬、中央競馬ではサラブレッド、地方競馬では昔は農耕用として使っていたが今は使われなくなって行き場がなくなったような地方のばん馬なども使われています。
どちらも馬ですが、馬は存在する動物の中でも野生では存在せず家畜としてしか生きていないと言われる動物です。
野生馬を食い尽くしたのは私たち人間であって、それほど人にとって馬の活用価値は高かったのでしょう。
移動から農耕から軍事にいたるまで、万能だった馬も活躍の場を失って、私たちが一番目にするのが競走馬となりました。
人が利用する動物のことを家畜というのですが、馬は家畜なのです。
家畜という言葉の響きはあまりよくないと感じられるでしょうが、これが事実です。
家畜は人が様々な形で利用するものであって、競走馬は人に馴れ人のいうことを聞いて競馬をする馬のことを言います。
競走馬として優れていれば、繁殖馬として生涯を豊に過ごすことが約束されます。
でももし競走馬として価値がなかったとなれば、その馬は馬肉になる可能性も十分にあるのです。
競走馬として走ることを拒否してしまえばこの先はないと、もし私がその馬を育てた職員だったら蹴ってでも馬を走らせたいと思うかもしれません。
そうでなければ生きる場がのない馬を「なんとしても走れ」と思う気持ちが虐待なのでしょうか。
実際のこの事件の当事者の方がどのような思いでいたのかはわかりません。
しかし、家畜という動物の世界は華やかな世界だけではないという、裏側があるということを知ることにも価値があると思います。
先日おすすめの本として「快楽としての動物保護」という本を紹介しました。
動物を保護したり愛護する歴史や背景は実に複雑なもので、人が利用する動物の販売から利用にいたる背景もまた単純ではありません。
馬と同じように犬もまた、純血種の繁殖から販売、また雑種犬の保護から飼育にかけても、うまくいっていない問題はあまり表面に出ることはありません。
しかも犬は馬よりもずっと小さな動物にされてしまい、どんなにうまくいっていなくても室内になんとかかくし通して飼うこともできるサイズになってしまいました。
私の犬のことを理解したいという気持ちが、他の動物、なかでも人が強くかかわる動物への関心に向いていきます。
もちろん今目の前にわが犬がいる方は、まずは足元の犬の立場にたって考えることを優先させてください。
かわいそうという気持ちを捨てて、犬を尊重するという姿勢を飼い主が持つことです。
「犬のしつけ」を今できない理由は増えることはあっても減ることはない。
犬を飼ったのであれば次の二つは絶対に必要なことです。
1.人に馴らすこと。
2.人の言うことを聞くようにすること。
この二のことを実は「犬のしつけ」といいます。
犬のしつけというとすごく特別な犬にすることのように思われるのですが決してそうではありません。
犬のしつけは、言うことを聞かない犬にするものでもないのです。
犬を人に馴れさせることと、犬が人の言うことを聞くようにすること、は犬が人と安心して生きるために犬にとってむしろ必要なことなのです。
この「犬のしつけ」ですが、犬に問題が生じる前の子犬のころから始めると決めた方は、犬のしつけがすごく進みます。
ですが犬が1歳近くになってしまって吠えが激しく出始めた後や、2歳近くになりすでに人にかみつきが出てしまった後となると、子犬のころのようには行きません。
犬に問題行動が出てしまうと「この犬の行動は本当に良くなるだろうか。」という疑問が生じてしまい、なかなか犬のしつけに取り組むことができないようです。
ですが本当にそうでしょうか。
カウンセリングに伺ったときに「本当によくなりますか?」とよく聞かれます。
答えは「犬には問題はありません。飼い主さん次第ですよ。」です。
私次第ならやるしかないと決意を固める飼い主と、本当によくなるのだろうかと疑問を感じてしまう飼い主では当然のことながら犬の変化は違います。
前者はよくなり、後者はあまりよくなりません。
「本当によくなりますか?」の言葉の裏には、やらない理由を探してしまう飼い主の心理が働いているからです。
私にも同じようなことがあります。
例えばダイエット、本当にやったら結果が出るのかな?と思っている段階で「やらなくていい理由」を探しているのです。
ドッグスクールやしつけ教室に実際に通い始めてからも、人はまだ「やらないていい理由」を探してしまいます。
犬のしつけは行動の変化と習慣化です。
繰り返し練習や毎日の積み重ねが必要なので、根気のない方には向きません。
グッドボーイハートではたくさんの飼い主さんが犬とのより良い関係を実現してくれています。
みなさん根性があるなといつも感心させられます。
だから私も生徒さんのことを最後まで諦めません。
できるように説得はしませんが、逃げる理由は聞きません。
生徒さんができるようになるまで付き合う覚悟でいます。
やらなくていい理由は月日とともに増えていきます。
もう犬が5歳になるからもういいよとか、自分も年をとってきたから楽をしようとか、
子供が成長して忙しいからなど、やらなくていい理由は増え続けていきます。
少しでも「何か違うかも」とか「犬が落ち着いていないと感じる」のであれば、今日から犬のしつけを始めて下さい。
でもそのときはユーチューブやしつけ本に頼らずに、しつけの専門家の指導を受けて下さい。
全国各地どこででも犬のしつけの指導を受ける環境が整っています。
犬について知らないことをたくさん学んでください。
犬の方にはやらない理由もできない理由もありません。
犬と真剣に向かって、より良い関係を見つけて下さい。
グループトレッキングクラスを開催しました。
早い梅雨入りで慌てましたが晴れてよかった。
週末は七山でグループトレッキングクラスを開催しました。
新しい犬さんたちも参加して、ドキドキのスタートとなりました。
グループトレッキングクラスにご参加の生徒さんは、家庭訪問の環境整備のトレーニングを終えた方ばかりです。
プライベートトレッキングクラスで練習していただき、その後にグループトレッキングクラスに参加可能となります。
グループの頭数は5~8頭くらいが通常ですが今回は少しだけ多い頭数となりました。
犬たちが規律正しく同じ方向を向いて同じ速度で移動するいわゆる集団行動となります。
もちろん、山の季節によって変わる温度、空気、匂い、景色を犬と共感していただきながら気持ちよく過ごしていただくことも大切です。
グループクラスは多少緊張感がありますが、他の犬とのこうした行動も都会ではなかなか実現できないものです。
グッドボーイハートならできるオリジナルスタイルのトレッキングです。
山歩きの後は少しだけ犬と犬の対面のお勉強もいたします。
今できていることが犬の状態です。
焦らずせかさずゆっくりと取り組んでいただくこともとても大切なことです。
来月も開催しますので、ご参加の方はご連絡下さい。
「犬が尾を振ると喜んでいる」など…人間はなぜ間違いを犯すのだろう。
犬についての間違った情報が山のようにあって、ひとつひとつ修正しているだけでレッスン時間の大半を使ってしまうことがあります。
例えば「尾を振っているので喜んでいるんです。」という犬に対する間違った情報などがたくさんあるからです。
犬が尾を振っていると喜んでいるということを教科書で習ったわけではないのに、なぜそう思っているのでしょうか。
おそらく「誰かがいった」「どこかで聞いた」「ネットに書いてあった」ということでしょう。
ところが数の原理というのはすごいもので、長い間にたくさんの人に知れ渡った情報は、どんなに間違っていてもそれが正しいということになってしまいます。
犬が尾を振るのは喜んでいるときでもあるし、攻撃的になっているときでもあります。
ということは尾を振っている犬から噛みつかれても、犬の方が正しいのであってかみつかれた人間の方は間違っています。
犬は興奮したりテンションが上がったり、気持ちや体に動きのあるときに尾を振ります。
攻撃する前にも尾を振ることがあるし、餌を食べているときに尾を振っているからといって手出しして噛まれないという保証はどこにもありません。
体を触ったときに尾を振った場合にも、喜んでいると思ってどんどん触るとかみつきに転じることもあり、犬は急変したのではなく、興奮した状態がただ続いているというだけのことなのです。
こうした「犬についての間違った情報」が広がってしまうのは、誰かがいったというあいまいな情報をうのみにしてしまうという人が大多数だということでしょう。
また、専門外でわからないことはひとつでも減らしておきたいだから入ってきた情報をまず受け取ろうというということや、ネットで調べたとしても間違った情報がたくさんネットに掲載されているのですから修正のしようがないという現状もあります。
犬がこれだけ身近な動物になっている現在、犬と暮らしていない人も常に犬に接する機会があります。
子供のころからの犬についての正しい理解について学ぶ機会を提供すべきです。
ところが現在では幼児教育における犬についての勉強は「犬とのふれあい教室」といった「動物をかわいがり保護する学習」になっています。
日本では小型犬や愛玩化された大型犬の数が多くなったからかもしれません。
犬は本来は動物であり、犬という動物や個体についてよく知らなければ気安く抱きしめたりなでたりすべきでないということを教えられることが無くなってしまいました。
犬に対する正しい理解を求めるのは、人にとっての安全という利益であると同時に、犬自身にとっての安心な暮らしにつながっています。
今こそ思い込みや間違った情報の繰り返しを捨てるために、メディアや曖昧な媒体から知識を得ることを止めて、自分で考える機会を持てる学びの場所を選んでください。
グッドボーイハートは飼い主さんが自分で考えるドッグスクールです。
気安く答えを出さないので生徒さんからは「もやもやする」と言われることがあります。
なぜ答えを出さないかというと、私と犬の関係ではなく、生徒である飼い主さんと犬のあくまで個人的な関係のことだからです。
グッドボーイハートでは「もやもや」がクリアになる瞬間を楽しんでいただくことが飼い主さんの楽しみになっています。(ですよね!)
気長に付き合うと味のあるドッグスクールというと伝わりにくいでしょうか。
真剣に学びたい飼い主さんが集まるドッグスクールであることは間違いありません。
グッドボーイハートはいつも真剣勝負で、犬との暮らしを楽しく!を目指します。
おすすめの本「快楽としての動物保護」信岡朝子著・講談社選書メチエ出版
久しぶりに「かじりついて読んだ本」をご紹介します。
題目の本ですが「快楽としての動物保護」信岡朝子著です。
著者の信岡朝子氏は比較文学がご専門の文学研究学者であるとのことです。
博士課程論文に筆を加えられたとの内容が同書の「おわりに」のところで紹介されています。
本書を探したのはアマゾンで偶然見つけたのですが、この題名にすごく心を揺り動かされました。
動物保護か決して快楽と同等とは思ってはいないのですが、動物保護は動物ために必要なのではなく、人のためにあるのではないかと常々思っているからです。
さらに、本書のサブタイトルとなっている「『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ」にも大変ひかれました。
映画「ザ・コーブ」は日本のイルカ漁を取り上げて話題になった映画ですが、同時にその後にこたえるように作られた映画「ビハインド・ザコーブ」を見たあとも、思うことがたくさんあるのだけれどなかなか言葉にはできないもどかしさのようなものがありました。
動物を助けたい、救いたいという単純な気持ちで起きている動物保護活動。
純粋で単純な気持ちであるはずのものも、莫大な歴史の流れの中に取り込まれており、私たち人類の歴史上の活動であることは間違いないと思います。
それは咲いている花をただ眺めてきれいだと思うだけの単純な気持ちとは違うからです。
この本のどこがいいのかを一言でいうことはできませんが、とにかくたくさんの方に読んでいただき、たくさんの犬と暮らす人がそれぞれの頭の中で考えていただきたい本なのです。
本の中に出てきた様々な動物にかかわきた方々から私はたくさんのことを学んできました。懐かしい名前もたくさんありました。
犬と狼について語る平岩米吉先生、オポの名づけとなったエルザの本の藤原英司先生、チンパンジーとコミュニケーションをするジェーン・グドール博士、イルカの脳の研究をするリリィ「博士、熊を負った星野道夫氏、そして尊敬するローレンツ博士…。
本を読みながら自分の頭の中の歴史を追うように夢中になって読みました。
この本は動物保護を否定するものではありません。
ただどんな歴史の中にも「良かれと思ってやったけれどやはり違っていた。」ということはあると思います。
自分自身の動物に対する愛、また世界の中での大きな動物保護活動という力についてもう一度考える機会にしていただける本だと確信しています。
読まれた方、感想を聞かせてください。
みなさんと語り合いたいです。
犬に噛まれる事故は他人ではなくて飼い主や家族に起きる
いつもお話しているのですが、犬はかみつく可能性があるという動物であるということを決して忘れずにいて欲しいのです。
それは、犬が危険な動物であると言っているのではなく、犬の能力として持ち合わせているということです。
人が他の動物や他の人を殺傷する可能性があるのと同じことです。
「犬が人にかみつく可能性がある」という一般論を特に私が言わなければいけなようなことでもないと思うのですが「あなたの犬もかみつく可能性がある」というと否定される方がほとんどです。
ところが「うちの犬がかみつくわけがない」とほとんどの飼い主が思っています。
室内飼育犬の飼い主には特にこの傾向があります。
こんなに小さくてかわいい犬が、こんなに可愛らしい犬が人にかみつくはずない、と思っているからこそ一緒に部屋の中で暮らしているのでしょう。
しかしその愛する犬が「いついかなるときにも絶対にかみつかない」という保証はどこにもありません。
そんなことを言われたら、犬とでは室内では一緒に暮らせないと訴えられることでしょう。
だからこそ、絶対とはいかなくてもかみつきの確立を限りなく99.999%に近付けるために犬のしつけという犬との関係作りが必要です。
犬が噛みつく理由にはいろいろとありますが、特にひどい傷をおうようなかみつき事故に関しては、「噛まれた人の方が境界線を越えたから」という理由がほとんどです。
夫婦や家族の喧嘩も同じことではないでしょうか。
境界線を越える=一線を越えて踏み込まれた、と感じたときに対立が生まれます。
この境界線ですが、日ごろからはっきりしていないと犬は常に飼い主とは対立の状態なので不安定な行動を繰り返します。
お互いが安心して暮らしていくための「人と犬の関係づくり」が必要なのです。
関係づくりには時間がかるため、犬を飼うための一定の規則と管理は犬を飼育する上では絶対に必要なことです。
犬に噛まれたのが家族であったら他人であるよりもまだましですが、家族であっても噛まれた人の心には傷が残ります。
同じように噛んだ方の犬にもトラウマが残ってしまいます。
曖昧な関係を犬は好みません。
境界線を作りそれをお互いに守ること、犬のトレーニングの基本です。
雨の日に外を眺める犬の姿がいとおしい
やっぱり雨になりました。
まだ梅雨入り宣言されていないようですが、雨降りのときの風の感じからすると梅雨のようです。
福岡では窓を開けたり庭に出たときにだけ感じる風の感じ、七山ではいつも外気との接触があるのでずっと外にいるような感覚で風を感じます。
福岡では得られなかった季節の肌触りが七山では感じられるのです。
お預かりクラスのときに雨がふると私も犬もガッカリではあります。
ただ雨だからこそ見られる犬の様子や表情というのもあります。
犬によってはクレートに戻りたがる、雨でも外に出たがる、降り続く雨をじーっと見ている犬もいます。
子犬や若い犬で社会的に安定している犬ほど、降り続く雨の風景をじっと見ているようです。
ひとつひとつの雨であっても、風の流れでにおいも音も変化していきます。
雲も流れているので強く降ったり弱く降ったりする雨を眺める犬の姿を、かわいいなと思いながら観察しています。
かわいいと思うのは犬の姿形やカットのスタイルのことではなく、表情もありません。
どこがかわいいのかうまく表現はできませんが、かわいいというよりはいとおしいと感じてるのかもしれません。
自分ではどうしようもない今起きている状況に対して、一秒一秒受け入れつつそして結果として変化を待っている犬の姿。
動物としては当たり前の姿なはずなのに、こうすればこうなる的結果を求める考え方しかできなくなった人間にとっては、純粋で貴重な姿です。
小鳥が鳴き始めました。
もうすぐ雨が弱まります。
動物が教えてくれる風景が自然の中にはあります。
絶対にやってはいけない子犬のしつけ「子犬の抱っこ散歩」※子犬を飼う方必読
最近、非常に多く子犬のしつけ相談に伺うようになって「絶対にやってはいけない子犬のしつけ」を飼い主さんの口から聞く機会が頻発しています。
グッドボーイハートの生徒さんには「それをやってはいけない、なぜやってはいけないのか」と説明することももはや仕事のひとつになっています。
犬のしつけというと「これをやってください」と指導することが本来のクラスの目的なのに、「やっていはいけない」こととその説明にものすごくたくさんの時間と労力を費しているのが本当に悔しくてなりません。
しかし子犬の時代の接し方やしつけは、犬の生涯を通して非常に大切なことなので、時間がかかってもやるしかありません。
子犬の散歩のさせ方でやってはいけないこととは
間違ったこともあまりにも多くの情報が流れることで「それが定説」となってしまうこともあるのですが、そうなってしまった「子犬の散歩のさせ方」で絶対にダメという方法があります。それは「抱っこ散歩」です。
子犬を抱っこして散歩させるお散歩のさせ方、これは絶対にダメです。
なぜなら子犬の社会化を逆に難しくしてしまうからです。
この抱っこ散歩ですが、ここ15年前くらいから流行り出したものです。
私も何かのセミナーで聞いたことがありますし、実際にやってみたこともあります。それが何のセミナーだったのか、どんな講師だったのかも覚えていません。
当時、子犬を早く散歩という場所に出して社会化を進めたいけれど、ワクチン接種が終わっていない子犬を外に出すことができない、それなら抱っこして出そうという人側の考えの中で生まれた方法が「子犬の社会化のための抱っこ散歩」なのです。
どうしてこのような発想になったかというと、子犬のワクチン接種が始まったのが、同時期の15年くらい前からだったからです。
ワクチンは最初は1種であったものが、今は9種とすごい数になっており、ワクチン接種をすること事態が子犬の免疫力形成にすごいリスクを負わせていることは討論されないまま、ワクチンしても社会化できるといわれた子犬の抱っこ散歩は当時は画期的な方法として拡散しました。
なぜ子犬の抱っこ散歩が絶対にダメなのか?
しかし、犬の仕組みをよく考えてみると、この抱っこ散歩は明らかに子犬の発達を阻害してしまいます。子犬は視覚の発達に時間がかかるうえに、人のように視覚が発達しません。
犬の知覚の多くは嗅覚=匂いの世界で構成されています。
「匂いの正解」これが犬という動物の仕組みです。
匂いをとりつづけて空間を把握するために、子犬の鼻はすぐに地面を匂います。
地面から離された抱っこの状態で、視覚にばかり刺激を与え続けると子犬の脳は混乱してしまいます。
結果として子犬の脳は、自分の周囲にある刺激に馴化するという脳の発達を促せません。
子犬の目で見たものは「わからないもの」もしくは「危険なもの」としてインプットされてしまいます。
走っている人やバイクなどの過剰に反応する犬はこの抱っこ散歩の影響で、混乱した情報をもってしまったということです。
動きが早すぎてそれが何者であるかを確認できない作業の繰り返しで「わからない=危険」が入力されたのです。
わからないものに対して恐怖を抱く習性は人も持ち合わせています。
わからないウイルスに怯える今の人間の様子もこの子犬と同じ状態を作り上げているということです。
同時に抱っこ=拘束が子犬の精神的な状態を不安定にさせます。
拘束は動物にとって最も危険な状態です。
だから子犬はサークルやリードという自分を拘束してしまう道具に対して反発します。
サークルは絶対に使用してはいけない道具です。
またリードは子犬の受け入れを確認しながら馴化させていく必要のある道具なのです。
犬の習性から学ぶ子犬の本当の社会化とは
抱っこ散歩の発想は、子供の抱っこやおんぶ散歩から来ています。赤ちゃんを抱っこして移動する方法は数少ない動物の習性ですが、人間はそのひとつです。
特に親が赤ちゃんを抱えて、赤ちゃん側も親にしがみつく行動で移動するのは霊長類でも数種しかありません。
人間の赤ちゃんでやるこの抱っこして移動する方法を犬に置き換えたのが子犬の抱っこ散歩になりますが、この方法そもそも犬の習性にはありません。
犬は子犬を抱っこして移動することはありません。
子犬の首元を加えてクロネコヤマトさんのマークみたいに移動させることはありますが、日常的にはテリトリーから出ようとする子犬を引き戻す行動としてさせるものです。
子犬は自分の足で匂いを嗅ぎながら歩き社会の中にあるものに反応をしつつ学びます。
また子犬は自分のグループの親犬の反応を確認しながら学びます。
子犬は安全なテリトリーの中で探索するという社会化の形が本来の社会化のスタートです。
抱っこ散歩は絶対にしてはいけない間違ったしつけです。
犬の習性という仕組みをよく理解して、犬の立場にたったしつけを飼い主が身に着けて子犬の成長を促してください。
冒険家の本を読んで「犬の育て方は愛情だけではうまくいかない」こと
本を読む一年の今年の一冊「極夜行前・角幡唯介著書・文芸春秋出版」を読み終えました。
著書の角幡唯介氏は探検家として大変有名な方です。
この本はカナダの北極圏の果ての果て、私には到底想像もできないような過酷な土地を探検する「極夜行」の前についてつづった本です。
冒険家に対するあこがれとこの本の一部が「犬を育てる」という内容であったことから読んでみました。
極地に向かうための準備、できるだけ機会を使わずに人としての能力に挑戦するアナログは手法には驚きと感嘆しかなく、わからない内容も多くて想像もできないほどでした。
読書の目的となった「犬育て」ですが、極地を移動するための手段として現地のイヌイットからそり犬から繁殖された若い犬を一頭買い求め、自分との関係を作りながらそりを引くことを教えてつつ極地を移動する予行練習に挑むという内容でした。
予行練習といっても命かけの極地の移動です。
犬はまだ未熟で人に服従もしない、食べ物を見つけるために手伝うわけでもない…。
そりを引くことすら拒否をする、自分の思い通りにならない犬に対してどのようにしたら犬が自分のいうことを聞くようにできるのか混乱する著者の姿がそこにありました。
自分がよくできたと思うときにはほめるのだけど、できていないというときには叱る。
このままでは死ぬのではないかと思うときには、自分の感情を思いっきり込めて叱って犬の方に理解を求める方法。
犬がいなければここでは生きていけない、移動は続けられない。
でも犬がどのようにすれば自分のいうことを聞くかどうかわからない。
犬に対する愛情だけは伝わってくるのですが、残念ながら愛情だけでは犬は役立つ犬にはならないのです。
ただかわいがり餌をあげて、あとは自由に過ごしていいよという昭和以前の放浪犬と同じように接しても、使役犬としては十分ではないということです。
その後、この犬はイヌイットの元に戻りそり犬のグループに入れられて、そり犬としての成長を果たしたことも書かれていました。
愛情では育たなかった犬、素地はあったようでそり犬というグループの中で犬から学んで身に着けた使役の性質、間に合ってよかったです。
大切にしたこの犬を連れて実際の極夜にのぞまれるこの本の続きもまたいつか読みたいと思いました。
犬育てはあくまで「愛情ベース」犬に対する思いや愛の強さが伝わってくるものです。
ほめたり叱ったりと、感動する方は感動するかもしれません。
またほめたり叱ったりして犬に対する愛情を表現できることは人としての喜びであると思います。
現実的に今の日本で犬を育てるためには、このスタイルは通用しないのです。
犬は一定の管理の元で飼うことが義務付けられているこの日本での犬育て。
犬に人を理解するように求めることの前に、まずはこちら人の方が犬に対する理解を学ぶことの方が先です。
それが効率が良くお互いにストレスの少ない「犬の育て方」です。
角幡氏の犬に対する接し方を否定するつもりはありません。
何かを極められる方は、他の分野でも気づきが早いからです。
犬は人の間違いをいつか許してくれる可能性が十分にあります。
そうでないとたくさんの間違いをおかす人との暮らしは苦しいばかりです。
一緒に生きるか死ぬかなどと、そんなパートナーはなかなかいないのです。
それこそが人と犬。
犬はファンタジーではないと教えてくれる本でした。