先日、移動中のラジオで「やせ我慢という言葉は今の若い人には伝わらない」という話を聞きました。
我慢をする必要がないから想像がつかないということらしいのです。
スポーツ流行りのド根性世代のわたしくらいの年齢の人なら、根性とか我慢とか辛抱といったことはある程度は体験したことがあると思うのですが。
最近では子供に我慢をさせることとはあまり美徳とはいえない風潮があることはなんとなく感じます。
子供に食事を制限するような虐待と我慢をさせることは全く別のことなはずですが、教育のつもりで子供を死に追いやってしまうような事件が起きると、どこまでが教育なのかという議論が始まり、子供に我慢をさせることに不安を抱える親も出てくるでしょう。
犬育ても同じように、犬を我慢させることができない飼い主が増えています。
例えば、犬がお腹を空かせてしまうのをかわいそうだと思うために、定期的に食べ物を与えてしまう飼い主もいます。
犬にオスワリといってもしなかったら、させるのはかわいそうだという飼い主もいます。
しかし、犬のしつけというのは「犬ができるように飼い主がサポートすること」が大切です。
犬ができるようにというのは、何もスポーツや芸などの特別な行動ではありません。
むしろ、日常生活で毎日繰り返される犬にとって大切な活動、例えば安心できる睡眠、大切な食事、楽しい散歩、リラックスした空間での休憩です。
そしてこの日常生活を支えているのが、犬の飼い主との関係なのです。
犬が飼い主を自分の主人として心地よい主従関係を結び、飼い主の適切な合図に行動できるようになっているなら、日常生活は安心した空間となっているはずです。
ところが、多くの犬たちは飼い主の間違った可愛がりによって主人を失い、不安定な気持ちで過ごさなければならなくなります。
この不安定でストレスまみれの犬を立ち直らせるためには、飼い主が犬にとって価値のある主人(=飼い主)であることを伝えるための練習が必要なのです。
それが、リードで正しく歩くこと、オスワリ、フセ、マテ、オイデといった合図に従う練習です。
この練習は、なんども繰り返す必要がある行動練習で、犬のトレーニングでは服従訓練といわれたり、オビディエンストレーニングといわれます。
本当に古典的な呼び名だなと思うのですが、犬と人が密接に暮らすために編み出された文化のようなもので、確かに関係性を高めてくれます。
練習の成果は、グッドボーイハート生で自分は頑張ったと思う飼い主なら自分の犬の行動の変化としてだけでなく内面の成長として出てくるはずです。
やるだけやって思うのは、結局辛抱強く頑張らなければいけないのは、犬ではなく飼い主の方であるということです。
飼い主が我慢強く、辛抱強く頑張るから、結果として犬もそうなったとみることができます。
繰り返し練習など面倒と思う飼い主がいう言葉は、「どのように叱ればいうことを聞きますか?」です。
「吠えたときにどのようにすればいいですか?」
「噛んだときどのようにすればいいですか?」
これは、練習をしない飼い主の逃げの言葉のように聞こえます。
そう考えるなら、犬とともにリードを持ってもっともっと歩く練習をしましょう。
我慢強い飼い主には我慢強い犬が育つ。
やはり、犬は飼い主に似るのです。
ローレンツ先生がそう言っているのだから間違いありません。
時代に合わない我慢も、犬という動物には必要なものだと思います。