※前書きになりますが今日のブログ記事は犬のしつけ方のハウツーをお探しの方には参考になりません。犬という動物と心から向き合いたい方だけお読みください。
今年は本を読むと決めていたからか、価値のある本との出会いが続いています。
現在読んでいる本「快楽としての動物保護」の中には、私が尊敬する先生方のお名前が次から次へと出てきて感動を覚えています。
本書の内容についてはまた後日改めるとして、今日はこの本の中で再会した「平岩米吉先生」の言葉から改めて学んだことを書きます。
平岩米吉先生との出会い
私は平岩先生と一度もお会いしたことはありません。平岩先生を知ったのは学生時代に平岩先生の著書「犬と狼」や「狼ーその生態と習性」などの本と出合ったことでした。
私が犬の訓練士になりたいと思った当時は犬の行動学の本などほとんどなく、平岩先生の本は本当に貴重な本でした。
犬の仕事に就いたあとも平岩先生の本を大切にしていたのですが、新しい訓練の技法や次々に入ってくる犬に関する情報を得ながら、平岩先生の本は自分の手元からなくしてしまいました。
ところが今年になって出会った先の「快楽としての動物保護」の中に何度も平岩先生の名前や引用が登場するのです。
「快楽としての動物保護」信岡朝子氏著書には題目のテーマに関連していくつかの題材が設けられています。
その最初のテーマが「シートン動物記」で、シートンを絶賛しているのが平岩先生だったそうです。そのため平岩先生の動物と人に係わる考え方が著書目線で記されているのですが、これがあたらめてですが参考になるものばかりなのです。
動物を馴致(馴れさせる)のにご褒美と罰はいらない
今日はその中の一つだけを引用で取り上げます。動物との関係を築くために、ご褒美や罰は不要だという平岩先生の考え方が記された部分です。
ここから引用
…然るに、この両者を近藤し、動物を馴致し心服せしむるには「賞よりも罰の適用が、更に賞と罰との併用がより効果的である」と述べる研究者があるのだから驚嘆する他はない。(平岩一九三七a、一ー二頁)
こうした主張は平岩が犬や狼をはじめ、多くの動物を自宅で飼育・観察する中で得た持論に基づくものだった。つまり、動物が人間に見せる従順さや忠誠、心服といったものは、強制や懲罰、あるいは餌などの「賞」によって導き出されるものではなく、彼らが生来有している自発的な「愛情」に基づくものであるという信念を、平岩は自分の経験を通じて確信していた。
引用ここまで「快楽としての動物保護」
これはあくまで生涯を動物の観察と飼育に全力を注いだ平岩先生だからこその言葉であって、適当にしか犬と付き合わおうとしないような現代人が軽々しく口にするような言葉でないことはわかっています。
ただ歴史の中に平岩先生のような研究者がいて大きな宝ものを残してくれたことをもう一度思い出したいと思うのです。
ご褒美や罰がないならどうやって教えるのだ。
平岩先生がいう犬という動物の中に宿る愛を通して人と犬がつながることができるのだとうしたら誰でもがそうしたいと願うことでしょう。平岩先生のとおりにすべてをすることはできなくても、基本的な考え方には近づくことができると思います。
先生の基本的な姿勢は「犬を理解すること」にありました。
動物が発する音声やしぐさで彼らが何を望んでいるのかがわかります。
人側が一方的にしたいことを先に要求しないというのも、先生の教えだったと思います。
たとえば「犬に触りたい」「犬をなでたい」という欲求はどうでしょうか。
そうした人の欲求を満足させるために犬は存在するのではないということを理解できるでしょうか。
犬に必要な環境はどうでしょうか。
犬が犬として過ごせる場所を子犬のころから持っているケースは今はほとんどなく、犬たちは子犬から産まれて飼い主の元に移った後でさえ人工を強いられているという意味では平岩先生の環境とは大きく異なっており比較にはなりません。
もし人が食べ物をもって近づいたときに唸ったら、すごく単純にそれ以上近づくなという意味であって「その食べ物をよこせ」という意味ではありません。
犬と犬は唸りあって食べ物を搾取するような世界を持ちません。
食べ物で支配されればされるほど食べ物に対して興奮度が高くなったりストレスを感じたりするようになります。
むしろ平岩先生が観察した自然な状態の犬だったら驚くほど食べ物には左右されないというのが本当の犬であると言えるでしょう。
だからこそ絶対にはってはいけないのは、食べ物を使って芸を教えるならまだしも、食べ物を使って人に馴れさせるなどはもっての他であり、犬は傷ついていくことをまず理解したいと思います。
動物が本当の真の愛で人との関係をつくるならそこには食べ物などのごほうびは不要なのです。
犬との山歩きには餌は不要もしくはマイナスの道具となります。
山歩きの極意は平岩先生の言葉にもあったと思い出した一日でした。