自然と共に生きている人、自然と共に生きようとしている人の姿を見ることで励まされることがあります。
自分の周辺の社会がまだ文明に侵されておらず、今でも自然のひとつとして生きている部族の方もいます。
そうではなく、すでに自分は文明社会の一員となっているのだけど、どうにかして自然の一部として生きようとしている人の姿に励まされるのです。
先日、テレビのドキュメンタリー番組で東北の熊と共にきるまたぎの姿が紹介されていましたので食い入るように見ました。
熊を探し、そして撃ち、そしてそれを感謝していただく。
熊を撃って手にいれたときは「山の神」という言葉で山の恵みをいただけたことを表現される。
手を合わせて弔いの儀式を行い、感謝してまたぎの方々全員に平等にその恵みが分け与えられる。
遠い日本の暮らしの一部をこの食べ物が豊かな文明の中で続けていくことの意義は、実際にそのことに携わったことのない私などには計り知れません。
今回のまたぎのそばには犬の姿はありませんでしたが、きっとこれが毎日の生活だったとき、またぎの傍には片時も離れずについていた犬の姿があったはずです。
人は熊撃ちの営みを続けられるまで続けていこうとされる中、犬たちはもうその場から姿を消してしまったと思うと悲しくなりました。
都会で幸せに生活をしている犬たちには、それぞれの幸せがあり熊撃ちの犬になる必要はありません。
熊撃ちの犬も都会の犬も同じ犬であるということを忘れたくないだけです。
自分も自然から離れて文明社会で生きているヒトという動物です。
自然に近づきたいと犬いっしょに山を歩いたり、竹を切ったり、草を刈ったりするのが精いっぱいです。
そんなわずかな時間でも、犬が犬として過ごす時間を共有することができることに幸せを感じます。
はだしで山を歩いて、獣のにおいを嗅ぎつけて、竹藪に顔を突っ込んでいくような、そんな犬の姿にワクワクしてしまいます。
熊撃ちの方に「なぜ熊を撃つのですか?」という質問をされていました。
生活のために必要のないことをなぜするのかという意味でしょう。
ハンターという音でいうと趣味的な要素が強くなりそうですが、またぎ達はハンターとは言われたくないといいます。
なぜ熊を撃つのか?にはっきりとした言葉はありませんでした。
当たり前だと思うのです。
なぜ山を歩くのですか?と聞かれているのと同じことです。
そこに答えはありません。
楽しいからでも、健康になるからでも、やせるからでも、疲れてよく眠るからでも、長生きできるからでも、最初はなんでもいいのです。
でも最後は答えは必要ではなく、ただ生きているから、そんな感じです。
山歩きには最高の季節が続きます。
花粉症の方も逆療法であえて山入りしてください。
またぎと比べることはおこがましいですが、犬たちはいつでも山とひとつになれそうです。